願證寺山門/photo by 立花左近 wikipediaより引用

寺社・一揆 信長公記

織田軍を苦しめてきた伊勢長島の願証寺を攻略だ|信長公記第114話

2020/02/19

天正二年(1574年)7月13日、織田信長が大軍を引き連れ、嫡男・織田信忠と共に父子そろって出馬。

伊勢の願証寺(桑名郡)を攻めるため、津島(津島市)に陣を張りました。

なぜ、そんな寺を大々的に攻撃するのか?

あまり聞いたことがないぞ――。

と思われるかもしれません。

ここは長島一向一揆の本拠地。元亀元年(1570年)に攻撃を受けて以来、常に織田軍の背後を脅かし、そしてダメージを与えられてきた、いわば仇敵です。

いよいよ決着をつけるべく、信長は動き出したのでした。

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元亀元年から始まった長島勢との抗争まとめ

長島一向一揆との争いは、なかなかややこしいです。

石山本願寺が浅井朝倉らと共に蜂起し信長包囲網を敷いたときに長島でも挙兵し、織田家の勢力下へ攻撃を仕掛けたのをキッカケに、以来、三度ほど大きな争いがあり、『信長公記』でもたびたび出てきています。

ただ、その一つ一つの出来事のスパンが長いんですね。

その間に織田家が別の敵と戦ったり、外交的な話がたくさん入っており、流れをつかむのに少々難儀する方もおられるでしょう。

信長と長島一向一揆との間で起きたことを簡単にまとめると、以下のようになります。

【1】元亀元年(1570年)

志賀の陣で石山本願寺と信長が対峙している最中、長島勢が織田方の小木江城(愛西市)を攻めた。

これによって、信長の弟であり城将でもあった織田信興が切腹。

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【2】元亀二年(1571年)

信長が長島を攻めようとしたものの、戦況が良くなく撤退を決める。

と、最後尾の殿しんがりを務めた柴田勝家が一揆軍に襲われて負傷し、入れ替わりに殿となった氏家卜全は討死。

卜全の家臣も、数名が主と命運を共にした。

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【3】天正元年(1573年)

長島の一揆勢に応じ、北伊勢の国人衆が反織田家の動きを見せたため、このときも信長が討伐に動く。

舟を集めて長島まで攻め入るつもりだったが、うまく集まらず、途中で引き上げることにした。

すると、元亀二年(1571年)のときと同じ場所でやはり追撃を受け、このときも殿を務めた林新二郎(織田家の筆頭家老・林秀貞の息子、あるいは養子)が討死した。

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このように信長は、肉親や家臣、兵を長島一揆勢との戦いで多く失っていたのです。

それにしても強敵ですよね。

相手は一向宗徒=庶民のはずなのに、下手すりゃ戦国大名と戦うよりダメージがでかい。

これは一体どうしたことなのか?

 


人や物の往来も盛んな天然の要害

長島一向一揆が強敵だった理由は主に2つ考えられます。

1つは、敵が一向宗の庶民だけでなく元武士なども紛れていたこと。もちろん非戦闘民も数多くいて、兵糧攻めにさらされると大きな負担になりましたが、一方で戦いなれた兵もいたので戦線が維持できたワケです。

もう1つの理由。
それは長島の“立地”でした。

木曽三川の河口域にあり、伊勢湾に近い長島は、川と海でできた海上交通の要所でした。

以下の地図をご覧いただくのが手っ取り早いでしょう。

左の赤い拠点が防御の中心だった長島城で、右の黄色い拠点が長島一向一揆の本拠地である願証寺です。

ご覧のとおり中洲ど真ん中!

しかも長島城を中心に多くの寺や道場のほか、複数の砦などが設置されていてエリア全体が「天然の要害」と化していただけでなく、船での交易が盛んなため人と物に溢れ、一種の治外法権となっていたのです。

かつて信長によって岐阜から追放された斎藤龍興(斎藤道三の孫)も逃げ込むほどの規模でした。

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むろん、長島の一向宗徒たちが、通常の信仰を大人しく守るような人々であれば、信長も手荒な真似はしなかったでしょう。

しかし最初に攻撃を仕掛けてきたのは長島一向一揆勢でした。石山本願寺の要請に応えたカタチとはいえ、織田家がこれほどの実害を受けていては、引っ込むわけにはいきません。

なんせ長島は、信長の本拠地である美濃や尾張からも近く、伊勢との中継地点になります。信長たちが別方面の敵と戦っているときに背後を突かれ、大惨事に至ることだけは避けねばなりません。

こういった理由で、長島の一向一揆勢は信長にとって色々と許しがたい存在でした。

 

織田家の名だたるメンツが登場 秀吉は参戦できず

さて、いよいよ本題へ。

今回の節は、人名や地名が非常に多く登場するため、いくらか省略することをご了承ください。

全ての人名・地名が気になるという方は、お手数ですが信長公記そのものをご参照いただけますと幸いです。

※『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon

長島一向一揆を攻めるにあたり、信長は14日、兵を三方向に分け、長島一向一揆の本拠地・願証寺(桑名郡)周辺を攻撃しました。

絵・富永商太

東の一江方面を担当したのは、織田信忠や信長の弟である織田信包、織田秀成。ほかに森長可や池田恒興などもこの隊におりました。池田恒興の娘が長可の正室なので、その繋がりでしょうか。

西の賀鳥方面は佐久間信盛や柴田勝家、稲葉一鉄父子、蜂屋頼隆などが配属されています。織田家の重鎮や古株が中心という感じですね。

中央の早尾方面は信長自身と、異母兄の織田信広、そして丹羽長秀、羽柴秀長などです。

羽柴秀長とは?

秀吉が絶大な信頼を寄せる弟で、後に「大和大納言」と呼ばれる豊臣秀長です。

この時期の秀吉は、浅井氏が滅亡したあとの北近江を治めており、対越前一向一揆への備えもしなければならず、長島攻めには参加できませんでした。そのため、弟の秀長を代理として送ったようです。

織田軍は三方向から攻め寄せ、焼き払い、緒戦は上々。この日は五妙(弥富市)に野営し、翌15日には海上からの攻勢も始めます。

水軍の登場です。

 

まずは5つの拠点を攻略せよ

織田家の水軍といえば九鬼嘉隆が有名ですね。

その九鬼と滝川一益が安宅船、島田秀満・林秀貞が囲い舟を用意し、周辺地域からも舟をかき集めたとありますから、相当な大船団だったのでしょう。

伊勢にいた信長の次男・織田信雄も、大船で参陣したといいます。

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陸海双方から攻められた一揆勢。彼らは妻子を連れて長島へ逃げ込みました。

信長と信忠は殿名(桑名市)へ渡り、陣を張ってから駆け回って戦況を確認し、軍勢の再分配を行います。

近辺には5つの拠点があり、一揆勢はそれぞれに立て籠もっていたのです。信長はこれらの拠点を各個撃破することにし、以下のように武将や親族を割り振りました。

【篠橋城】

織田信広・織田信成・織田信次
氏家直通・安藤守就・水野信元

【大鳥居城】

柴田勝家・稲葉一鉄父子・蜂屋頼隆

【坂手の陣】

佐久間信盛・信栄父子

【推付の陣】

市橋長利・不破直光・丹羽長秀

【加路戸島の陣】

織田信包
林秀貞・島田秀満

【大島の陣】

織田信雄・織田信孝

織田氏だけでも、かなりの人数が動員されていますね。少し整理しておきましょう。

信長の親族衆

織田信広と織田信包→信長の兄弟

織田信成→信長の父方のいとこ、かつ縁戚(信長の姉妹・小幡殿が信成の妻)

織田信次→信長の父・信秀の末弟(信長にとっては叔父)

信雄・信孝は信長の次男・三男ですから、まさに親族総動員。

織田家の家臣もほとんどが参加していますが、先述の理由で北近江を離れられなかった羽柴秀吉や、京都での政務を預かっていた明智光秀は参加していません。

後々のことを考えると、なんだか意味深な気もしますね。信長がこの二人をいかに重用していたか、という点も推し量れるかと。

 


逃げ出そうとした男女1,000人を切り捨て

5つの拠点の地名は全て、現在の桑名市にあたります。

このうち、大鳥居と篠橋の一揆勢は、戦闘が始まってしばらくしてから赦免を願い出てきました。

……が、信長は許さず、兵糧攻めへ切り替えます。これまでの経緯を考えれば、そう簡単に助命するわけにはいきません。

半月ほど経った8月2日。
この地域は激しい風雨になったようです。新暦では8月18日頃ですから、台風でしょうか。

これに紛れて、大鳥居にこもっていた一揆勢が逃げ出そうとしました。しかし織田軍が察知し、男女1,000人ほどを切り捨てたといいます。

ただ逃げるだけではどうにもならない――そう判断したのでしょう。

8月12日には篠橋の一揆勢から

「長島城に入って織田方のために働くので、ここから出ることを許してほしい」

と願い出がありました。

信長はこれについては許し、一命を助けています。ずいぶん対応が違いますが、これはおそらく

・もしも言葉の通りに働けば、織田軍に有利になる

・長島に入って徹底抗戦されたとしても、城内で兵糧の消費が加速する=兵糧攻めがしやすくなる

という判断があったのでしょう。

その結果どうなったか?

……と、その前に、次回は同時進行していた別のトラブル話が挟まります。

お待ちになれない方は、長島一向一揆をまとめた以下の記事を先にご覧いただければ幸いです。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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