川だらけの石山合戦図/wikipediaより引用

信長公記 寺社・一揆

浅井朝倉の脅威はなくなったが……本願寺が再び蜂起!信長公記109話

天正二年(1574年)4月3日、石山本願寺が反信長の兵を挙げました。

これに対し、信長は即座に兵を動かして対抗。

近隣の農作物を薙ぎ捨て・焼き払わせます。軽い牽制といったところでしょうか。

……ということしかこの節には書かれていないのですが、これで終わるのもあんまりなので、石山本願寺についてもう少し触れておきましょう。

 

宣教師ヴィレラも認める信仰力とは

寺院ではあるものの、この時代の本願寺は織田家と真っ向から戦える武装勢力です。

浄土真宗=一向宗の本拠であり、同宗派は庶民層に広く受け入れられていたため、多くの信徒と財を抱えていました。

これらを元手に、石山本願寺は城にも匹敵する堅牢さを構築。各地の戦国大名と縁戚関係になって、政治的にも盤石な体制を築こうとしたのです。

ここまで巨大組織になると、いかにも腐敗しそうなものですが、延暦寺に比べて本願寺ではその手の話があまり目立ちません。

1560年代に近畿に来ていたイエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラという人物が、当時の大坂近辺のことを手紙に書いており、その中にこんな記述があります。

ガスパル・ヴィレラ

「この寺の坊主が説教をすると、庶民の多くが涙を流す」
「朝のお勤めの際には皆、御堂に入る」

ここで言う”庶民”も、おそらく信徒たちでしょう。
本願寺が厚い信仰心で結束しており、指導者である僧侶たちも、聖職者として真っ当に働いていたのでしょうね。

戦国時代当時でも700年という歴史を持っていた延暦寺と、まだ100年ほどしか経っていなかった本願寺の大きな差異ではないかと思われます。

 

ゆるい戒律で妻帯OK 肉食もOK

本願寺の法主(一番エライ人)が開祖・親鸞の子孫たちだけでなく、浄土真宗の特徴も大きく影響したでしょう。

それはざっと以下のような通りです。

浄土真宗の特徴

・僧侶も妻帯や肉食が可能=戒律がない
・他力本願及び悪人正機説=「誰でも、仏様を拝めば極楽浄土へ行ける」

実にわかりやすくて「多くの人が救われる」ものだったからこそ、信徒が増えやすい条件が整っていたと考えられます。

特に、当時は戦国の世です。
ただでさえ戦や流行病や天災でいつ誰が死んでもおかしくないのですから、「これ以上の苦行をせずに救われたい」と思う人が多かったでしょう。

世襲制によるリーダーへの信頼と信仰心、そして数がそろった石山本願寺が、巨大な勢力になるのも至極当然といえます。

 

信長を苦しめた長島や北陸

本願寺は近畿だけでなく、北陸と伊勢長島にも勢力圏を築いていました。
特に長島の信徒たちは周囲の地の利を活かして、織田軍を大いに苦しめてきたことはこれまでにも触れた通りです。(77話・102話)

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加えて、本願寺の勢力圏はどこも港湾都市を抱えています。
信長としては政治的にも軍事的にも、交易の面から見ても、本願寺をどうにかしなければなりません。

なんせ、かつて石山本願寺に挙兵されたときは、【野田城・福島城の戦い】に織田軍の兵を引きつけさせられ、その背後で浅井朝倉連合軍が放棄。

志賀の陣】と【宇佐山城の戦い】で森可成や信長の弟・織田信治を失うなど、大変痛い目に遭っています。

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この戦国大名よりも厄介で強大な敵とともに山積みの問題を、信長はどうこなしていくのか。
浅井朝倉の脅威が完全になくなった今、織田家は新たなステージへと向かいます。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

 



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