『信長公記』首巻第8節は、当時の織田家の内部事情が窺える話です。
織田信秀は古渡城(愛知県名古屋市中区)をわざわざ取り壊し、新しく末森城(愛知県名古屋市千種区)を造って、移り住みました。
那古屋城も含めて、地図で位置関係を示しますと以下の通りとなります。
【青】那古屋城
【黄】古渡城
【紫】末森城
古渡城(黄)から末森城(紫)までが、現代の道路で7.6km程度。
また、古渡城(黄)から那古屋城(青)までは4kmくらいです。
ということは、信秀はごくごく近所で引っ越しを繰り返したことになりますよね。
当時の交通事情では、そこそこの距離だったかもしれませんが。
不安定な領国経営を安定させるため?
基本的に戦国大名は、特別大きな事情でもない限り、居城を移すなんてことをしません。
コストがかかりますし、領土経営が不安定になるリスクがありますからね。
でも信秀は断行している。
なぜなのか?
当時は尾張一国を統治しきれていない織田家。
城の連携を強化することは防衛力も上がる――そんな戦略的な面も大きかったのでしょうが、単に数を増やしても意味はないでしょう。
もしかすると跡取り候補・織田信長の成長を一歩引いた位置から見守りつつ、器量を見定めていたのかもしれませんね。
信秀は子沢山で、息子だけでも12人もおりました。
ゆえに、いずれ息子たちに譲るための城を用意した、という可能性もあります……が、それなら古渡城を放置するのは少々矛盾してしまう、うーん。
末森城は後に、信長の弟・織田信行に譲られているので、はじめから前線基地という意味合いもあったのでしょうか。
父・信秀もフットワークがめっちゃ軽い?
いずれにせよ、超近所での引っ越しは、信秀の柔軟な考えやフットワークの軽さがうかがえるポイントでもあります。
織田信長も、たびたび居城を変更していたり、自ら軍を率いて先頭に立つことも珍しくありませんでしたから、これは遺伝、あるいは父から体感的に学んでいたのかもしれません。
織田信秀が末森城へ移った後、ちょっとした身内のドンパチがありました。
犬山城の主・織田信清が柏井口(春日井市)へ攻めてきたのです。
これまた地図で確認しておきましょうか。
末森城(紫)から見て、犬山城(赤)は北にあります。
両城の距離は現代の道路で約30km。当時でも、徒歩で一日かければいける距離ですね。
信秀の軍は末森城から出て迎え撃ち、勝利を収めた――と、信長公記には書かれています。年月日の記載がないのですが、おそらく天文十七年(1548年)のことと思われます。
ここで出てきた”信清゛。
「一体どこの誰?」と思った方も多いのではないでしょうか。
国内で敵対した同族の代表格は?
彼は信秀の弟・信康の息子です。
つまり、信秀にとっては甥っ子であり、信長にとってはイトコにあたりますね。
織田信康は、兄の信秀に忠実でしたが、加納口の戦い(井ノ口の戦い)で討死。
跡を継いだ信康は、父と真逆の路線を行っていたのです。
後に桶狭間の戦いで今川義元の首をとった織田信長が、その時点では【尾張一国】すら治めきれてなかったのは意外と知られていませんように、信秀の代から同族で争っていました。
そこで今回は、尾張統一まで信秀・信長と敵対した親族の代表格
・織田信清
・織田信友
の動向を先に整理しておきましょう。
それぞれの軍や居城の名をとって「○○衆」と表現されることも多いですね。
◆織田信清 犬山城(愛知県犬山市)
もしかすると、城主より城そのもののほうが有名かもしれません。
現存天守12城のひとつであり、国宝となっています。実際に訪れた方も多いのではないでしょうか。
信清が信秀・信長に反発した理由は判然としませんが、おそらくは信長の悪評の高さからの反抗と思われます。
そりゃあ、うつけ(アホ)が目上になるほど、怖くて腹立たしいことはないですものね。
残念ながら、信秀の存命中に信清との関係が良くなることはありませんでした。
信長とも険悪な状態が続きましたが、信長が姉・犬山殿を嫁がせたため、一時的に関係が改善しています。
しかし、その後とある城を巡って再び対立し、信長は信清を攻め滅ぼさざるを得なくなりました。姉・犬山殿は、このとき信清との間に産まれた姫を伴って実家へ帰っています。
信長は、姪っ子であるその姫もきちんと生活の保証をしていたようです。
信長の姉妹といえば、やはりお市の方が有名ですが、他の姉妹やその子供たちに対しても、丁寧に扱っていたんですね。
信長との争いに負けた信清自身は、甲斐まで逃げ延び、その後は僧侶として生涯を閉じたといわれています。
逃げた後のことがよくわかっていないのはお約束ですね。
◆織田信友 清州城(愛知県清須市)
織田信友は、信秀の主筋に当たる人です。
尾張の下四郡を預かる守護代・織田大和守家の当主。
大和守家は本来の守護である斯波氏を保護していましたので、名実ともに信秀よりも目上の人といえます。
しかし、当時問われるのは武将としての物理的実力です。
信秀のほうが遥かに格上だったことや、信友自身がそれを理解していたことなどから、関係が悪化。
6話でも述べた通り、信秀が大垣城へ戦をしに行っている間、信友が古渡城を攻めるなど、緊張した状態が続きました。
信秀vs道三、再び~戦国初心者にも超わかる信長公記6話
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その翌年には和睦できて「なんとかマシ」な状態に落ち着きます。
が、信秀が亡くなった後、信友は信長の弟・信行を強く支持したため、信長と大々的に対立することに……。
彼らが、家督を継いでしばらくの信長の敵となります。
どちらの話もまた後日お話しますので、なんとなく「そういえば、いとことかで信長と仲悪い人いたなー」くらいの感覚でいいかと。
信長は弟・信行をはじめ「身内にすら敵が多かった」というイメージが強い方も多いでしょう。
もちろん、親族の味方もちゃんといました。
叔父(信秀の二番目の弟)である、織田信光がその一人です。
信光はこの後、とある城を巡って大活躍するので、そのお話も楽しみにお待ち下さい。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)