「尾張の戦国大名」といえば、やはり織田信長――。
と言いたいところですが、大河ドラマ『麒麟がくる』の影響で、高橋克典さん演ずる織田信秀にも注目が集まるようになりましたね。
当然この二人はいきなり歴史上に現れたわけではなく、連綿と続く尾張織田氏の系譜に位置づけられます。
今回、注目したいのは、その尾張織田氏の一人・織田信友(彦五郎)。
大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場したため、彼もまた知名度が上がりましたが、では、この方は一体何をされたのか? と問われたら即答できる方も少ないでしょう。
本稿では天文24年(1555年)4月20日が命日となる、織田信友(彦五郎)の生涯を見てみたいと思います。
内乱に明け暮れた尾張の斯波氏と織田氏
織田信友(彦五郎)を知るためには「信長以前の尾張」を把握しておくことが早道。少しばかりお付き合いください。
尾張の地で織田氏が頭角を現すのは、15世紀のはじめごろでした。
織田常松という守護代が登場し、主君であり守護でもある足利一門の名家・斯波氏を補佐。
ところが、室町幕府の衰退によって応仁の乱(応仁・文明の乱)が起こり、斯波氏も二つに分裂してしまいます。

応仁の乱を描いた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用
織田氏もこれに呼応する形で分裂し、
【織田大和守家】
と
【織田伊勢守家】
が誕生しました。
両家の対立を制したのは大和守家で、彼らが守護代を任されるようになります。
ところが、です。
程なくして、斯波氏と織田大和守家の間で戦が勃発。
争いの原因は遠江への遠征をめぐる意見の対立であり、結果、大和守家の当主・織田達定(おだみちさだ)は討たれ、織田達勝(おだみちかつ)が跡を継ぎます。
達勝は、今回の主人公・織田信友(彦五郎)の前当主にあたります。
達勝は、長きにわたって守護代の座に就いておりましたが、この期間に同家の勢力は徐々に低下。
代わりに台頭してきたのが、大和守家の家臣筋であったはずの織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)でした。
戦国ファンにはお馴染み、織田信長の一族ですね。
彼らは土地の横領や津島商人の支配をもって力を伸ばし、信長の父・織田信秀の代には大和守家をしのぐ力を得ていました。

織田信秀/wikipediaより引用
そして天文元年(1532年)。
信秀と達勝の間で戦が勃発するのですが、間もなく両者は講和に至り、信秀はあくまで主君である達勝の顔を立てながら国内の政務を担当しました。
そのため、両者の関係は比較的良好であったと思われます。
しかし、すでに経済力や軍事力では信秀が圧倒しており、主筋である織田大和守家としては、家臣筋の信秀が国外に進出し、勢力を強めるのをただ眺めているほかありませんでした。
当然、これを良く思わない連中が出てきます。
今川や美濃を相手に疲弊する信秀
達勝と信秀の関係が変化したのは、天文17年(1548年)頃のことでした。
織田達勝が城主であった清須城で、その家臣たちである「清須衆」が、信秀の留守を襲撃したのです。
達勝と信秀は、天文年間を通じて友好的な関係を築いてきました。
にわかにそれが崩壊し始めます。
家臣が暴走した理由は定かではありませんが、達勝の年齢も影響しているでしょう。
生年不明ながら、天文17年時点では相当な高齢だと思われ、城内で息巻く家臣らを統制できなかった可能性が考えられます。
また、信秀の勢いが鈍っていたことも影響しているでしょう。
信秀は今川氏との【第二次小豆坂の戦い】で敗北したばかりか、それ以前にも美濃の斎藤道三相手に苦戦を重ねており、非常に苦難な時期を迎えていたのです。
信友をかつぐ清須衆にチャンス
家勢の落ちた織田信秀を、ここぞとばかりに攻撃を開始したのは「おとな衆」でした。
清州城にいた坂井大膳・坂井甚介・河尻与一といった老臣たちのことで、争いの結果、両者は翌年に和睦を結びますが、信秀と清須衆の対立が根本から解消されるには至りません。
では、再び対決したのか?
というとそうではなく、天文19年(1549年)以降、達勝の名前が文書から消えていくのです。
おそらく苛烈な業務に耐えられなくなっていたのでしょう。
天文22年(1552年)までの間に、織田大和守家の中で守護代の交代があったと考えられます。
このタイミングで織田信友(彦五郎)が守護代を継承したのかどうか。
その点は不明ながら、後に彼が後継の守護代となったことは間違いありません。
ただし、もはや彦五郎には清須城内での実権は無きに等しく、政治を動かしていた中心的存在は、先に挙げた「おとな衆」たちです。
信秀も、結局、往年の勢力を盛り返すことができないまま、天文21年(1551年)に病没。
跡を継いだのはご存知、織田信長であり、

織田信長/wikipediaより引用
こんな状況ですから尾張の主導権を狙う勢力も少なくありません。
清須城主・織田信友をかつぐ清須衆にとっても千載一遇の好機でした。
信長との直接対決はじまるが……
織田信友(彦五郎)と清須衆らは、案の定、織田信長に敵対する構えを見せました。
彼らはまず、信長の弟である織田信勝(信行)をかつぎ出し、逆転を狙います。
天文21年(1551年)には清須衆が信長を攻め【萱津の戦い】が勃発。
しかし、この戦いで清須勢力は大将・坂井甚介らを討ち取られる大敗を喫し、かえって信長および弾正忠家の力を国内外に知らしめる結果を招いてしまいます。
信長は叔父の織田信光や、義父の斎藤道三との関係を強化します。

斎藤道三/wikipediaより引用
さらに、清須衆対策として守護の斯波義統に接近し、着々と地盤を固めていきました。
「このままではいつか確実に負けてしまう……どうしたらいい……」
清須衆は焦ったのでしょう。
彼らは「守護の斯波義統を殺害する」という危険な賭けに出ます。
信長と義統が接近すれば脅威になると考え、事前に命を奪うという一手に出たのですね。
策士策に溺れて織田信友は自害させられ
結果的に斯波義統の殺害は「悪手」以外の何物でもありませんでした。
彼らは守護を殺害したことにより「主殺しの悪党」という汚名を被ってしまったのです。
加えて、父を殺された義統の嫡男・岩龍丸は、信長のもとへ逃げ込み助けを求めました。
これにより信長は大義名分を得ます。
「我こそが守護の後継者を保護する者ぞ! 主殺しの悪党(清須衆)を討つのだ!」
苦境であった清須衆は、さらに状況が悪化。
そもそも守護であり主君である斯波氏を暗殺するなど、誰がどう見ても拙い作戦だと気づくはずですが、そんな作戦が立案&実行されるほど清須城内は混乱していたのでしょう。
このときは柴田勝家の指揮する軍と戦い、清須衆は三十人程が討ち取られたとあります(安食の戦い)。

柴田勝家/Wikipediaより引用
実質的に傀儡となっていた彦五郎を操る坂井大膳は、はやる気持ちを抑えられず次の策に打って出ます。
今度は信長の後ろ盾である織田信光に接近し、信長から彼を引き離そうとしました。
信光に対しこんな条件を提示したのです。
「我らに協力をくだされば信光殿を守護代にいたしましょう。信友様と共に両守護代として、尾張の実権を握ってみませんか?」
しかしこれもまた残念な一手となってしまいます。
信光は誘いに乗るどころか、甥の信長に【清須衆の計画】を打ち明け、二人で今後の対策を協議。
信光が大膳の誘いを受けたふりをして清須城内に入ると、その場で織田信友を切腹に追い込んでしまうのでした。
哀れ信友は、ほとんど自らの采配を触れず、歴史の舞台から姿を消すことになってしまうのでした。
天下統一の「引き立て役」となった?
あれ? 打倒信長の旗手だった坂井大膳は?
ある程度の鋭い察知能力と行動力があったのでしょう。
坂井は事前に危機を察して今川方へ逃走し、そのまま歴史の表舞台から姿を消すことになります。
こうして清須勢力は壊滅しましたが、それでも信長の弟・織田信勝は後継者への道を諦めきれず、反乱を計画。
弘治2年(1556年)に【稲生の戦い】で信長に敗れ、永禄元年(1558年)に清須城内で殺されます。
最期は、重臣だった柴田勝家にも見放され、信長の罠によって謀殺されたのでした。
※以下は「織田信勝」の関連記事となります
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織田信勝(信行)の生涯|信長に誅殺された実弟 最後は腹心の勝家にも見限られ
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長きにわたる戦いに終止符を打った信長ですが、そこからさらに多くの戦いを重ね時間をかけて尾張国内を統一。
美濃へ進出し、上洛を経て全国へ版図を拡大していくのは周知の通りですね。
後世から見れば、織田信友や清須衆は天下統一の「引き立て役」に過ぎなかったとも言えましょう。
結果論とはいえ、傀儡の彦五郎を中心とした清須衆の作戦は随分とお粗末でした。
人間、焦ると、判断が鈍ってしまうのはいつの時代も変わらないということでしょうか。
なお、ややこしい織田信長の【尾張統一】については、以下の記事にまとまっておりますので、よろしければ併せてご覧ください。
頭の中が整理されると思います。
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【参考文献】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『天下人の父・織田信秀――信長は何を学び、受け継いだのか(祥伝社)』(→amazon)
岡田正人『織田信長総合事典(雄山閣出版)』(→amazon)







