『信長公記』には何年のことか書かれていないのですが、【佐々成政の居城が比良城(ひらじょう)だった】とありますので、永禄三年(1560年)以降のことと思われます。
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この年に成政が家督を継ぎ、現在、名古屋市西区にある比良城に入ったんですね。
その比良城の東には、南北に伸びる大きな堤防がありました。
そして西側には「あまが池」(※)があり、「恐ろしい大蛇が潜んでいる」と長く伝えられていたのです。
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眼は星のように光り輝き、舌は真っ赤で大きく
ある年の1月中旬、この近くに住む又左衛門という人が、雨の降る夕方に付近を通りかかり、奇妙な化け物に出くわします。
「顔は鹿のようで、眼は星のように光り輝き、舌は真っ赤で大きく、人の手のひらを開いたようだった」
証言によると、まるで化物。大蛇であれば、体長に関する表現があっても良さそうなものですが、そうではない……。
時刻や天候のせいで体まで見えなかったか。
驚きすぎてそこまで目が行かなかったか。
あるいは、その両方ですかね。
又左衛門は恐ろしさのあまり、もと来たほうへ大急ぎで逃げ出しました。
そしてこのことを周りの人々に話したので、あっという間に噂になり、やがて織田信長の耳にも届きます。
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「明日、その池で蛇替えをする」
為政者たるもの、領内の治安維持は大切な仕事です。
優しいとかそういう話ではなく、又左衛門のように、大蛇を恐れて人の行き来が滞ったり、いざというとき兵が怖気づいて行軍に支障が出るようなことは、未然に防がなくてはいけません。
そこで1月下旬、信長自らこの近辺を訪れ、又左衛門を呼び出しました。
ずいぶんとフットワークが軽く感じますが、清州城からこの池までは、現代の道路で9km程度。朝晩馬を乗りこなしていた信長なら、「ちょっとそこまで出かける」くらいの感覚だったのでしょう。
黄色……清州城(信長)
紫色……比良城(成政)
緑色……あまが池(大蛇)
ちなみに、前回お話した【稲生の戦い】をした地点からこの池までは3km程度の距離です。
信長公記首巻の舞台の多くが、信長にとっての近所であったことがわかりますね。
信長は又左衛門から詳しい話を聞き、「明日、その池で蛇替え(じゃがえ)をする」と触れ書きを出します。
蛇替えとは、池の水をかき出して蛇を捕えることです。
日本では蛇を水神とみなしたり、神の化身・神の使者と扱うことも多いですが、マムシなどの毒蛇の場合は実害も大きいので、退治することもままあったのでしょう。
信長から見れば、本当にそんなデカイ蛇がいるなら単純に危険ですし、もしもこの周辺を行軍しているときに襲われでもしたら一大事。
おそらく若い頃の話なので、ただ単純に【化け物退治】と考えていた可能性も高いですけどね。
信長自ら脇差をくわえ、池の中へ
そして蛇替え当日、周辺の村からも住民が多々集められ、大規模な作業となりました。
しかし、どうしたわけか、元の7割ほどまで水を減らすと、それ以降は何度すくっても水が減らなくなってしまいます。
そこでなんと、信長自ら脇差をくわえ、池の中に入っていくという荒業に出ます。
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