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【あまが池の大蛇と成政】
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7話でも述べましたが、信長は本当に泳ぎが得意だったんですね。
しかし一向に蛇は見つからず、信長は一度水から上がり、集まった村人の中から泳ぎの得意な者を一人呼んで、
「お前がもう一度調べてこい」と命じて、池の中を探させました。
それでもやはり蛇は見つからず、信長は諦めて清州城へ帰ります。
旧暦1月下旬=新暦2月下旬なので、いくらなんでも長時間の水泳には向かない季節です。
毎年3月から水練をしていた信長からすれば、「今年は少し早く泳ぎ始めるか」くらいの気分だったかもしれませんが。
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隙を見て刺し信長公を道連れに飛び込みます
この節は、後半の話のほうが主題かもしれません。
前述の通り、この大蛇は、佐々成政の居城付近での話です。
現代の道路だと7~800mくらいしかないほど。実は当時の成政は、信長に反抗心があり、この日は仮病を使って蛇替えに参加しなかったといいます。
そのため成政は「信長が比良城見物を兼ねて、蛇替えの後ここに立ち寄って、切腹させられるのではないか?」と怯えていたのだとか。
それを成政が自分の家臣に告げると、家老の一人・井口太郎左衛門という者が言いました。
「信長公がここにいらっしゃるのなら、城の見物をしたいとおっしゃるでしょう。私が水辺へご案内し、隙を見て刺し、そのまま信長公を道連れに川へ飛び込みます」
そう言って成政を安心させました。
牛一が信長に心酔していたことがよくわかる
結局、信長はまっすぐ清洲城へ帰ったので、この計画が実行されることはなく、誰も死なずに済んでいます。
成政の取り越し苦労っぷりもすごいですが、太郎左衛門の捨て身ぶりもまた凄まじい。
さすが戦国時代としかいえません。
これについて、著者である太田牛一は以下のように信長を褒め称えております。
「一城の主たる者は、このようにいついかなるときも用心していなければならないのだ」
信長がこのときどう考えていたかはわかりません。
ただの偶然という可能性もありますが、牛一が信長に心酔していたことがよくわかる表現です。
※ あまが池……現在は「蛇池(じゃいけ)」と呼ばれる名古屋市西区の池。蛇池神社(正式名称は「龍神社」)という神社があるが、これは信長由来ではなく、20世紀になってから建てられたもの
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)