足利義昭/wikipediaより引用

信長公記 足利家

信長vs義昭の最終戦!槇島城の戦いで室町幕府が滅亡~超わかる信長公記93話

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兄の足利義輝が【永禄の変】で暗殺されるまで、僧侶だった弟・足利義昭

室町幕府の後継争いによって一時は興福寺に幽閉されるも、細川藤孝の兄・三淵藤英らの救出作戦もあって大和国(奈良県)を脱出。
織田信長に担がれて京へ上って、将軍就任後しばらくは信長を「父」と呼ぶほど慕っておりました。

しかし……。

いつしか義昭は信長と対立し、しまいには政治を放り投げ、信長包囲網を呼びかけるまでに。
当然、その行状は諌められ、ついに審判の日を迎えてしまいます。

ついに自ら挙兵してしまうのでした。

 

槇島城の戦いへ

元亀四年(1573年)7月16日。
織田信長は義昭の立てこもる槙島城(京都府宇治市槇島町)へ進軍しました。

当時このあたりには”巨椋池(おぐらいけ)”という巨大な池があり、槙島城はそこに浮かぶ難攻不落の城と思われていたようです。
少なくとも義昭にとっては、京都周辺で最も堅牢な城だったのでしょう。

織田軍がただちに宇治川を渡ろうとしたところ、運悪くこのときは水量が多く、諸将はためらいました。

しかし信長が自ら「先陣を務める」と言い切ったため、諸将たちは引くに引けなくなり、二手に分かれて渡ることになります。

このときの織田軍、実に7万ともいわれる大所帯でしたので、分散しなければいろいろと不都合だったのです。

一方、義昭軍の兵数は不明。
義昭一人を追い込むのに、織田軍は凄まじい大軍ですね。

平等院の北東側から渡ったのは、稲葉一鉄・貞通親子、氏家直通(氏家卜全の子)、安藤守就など。
まんま美濃三人衆(西美濃三人衆)が中心ですね。

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この付近は、かつて木曽義仲源範頼源義経が戦った””宇治川の戦い”において、義経軍の佐々木高綱と梶原景季が「宇治川の先陣争い」をしたといわれるところです。

諸将も、さぞかし気合が入ったことでしょう。

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佐久間軍・蜂屋軍がまず50騎ほど討ち取る

一方、宇治川の東から西へ渡る組は、古くから信長に仕えてきた者たちが主でした。

佐久間信盛
丹羽長秀
柴田勝家
羽柴秀吉
蜂屋頼隆
明智光秀
・荒木村重
蒲生氏郷
・小川祐忠

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織田軍ではド定番のラインナップです。
参加武将の数とメンツからして、こちらのほうが本隊でしょう。

全軍無事に宇治川を渡りきったのが7月18日の午前十時頃。
渡河後に兵と馬を少し休めてから、いよいよ槙島城への攻撃が始まります。

意外なことに『信長公記』には、義昭方の兵力や、織田軍の詳しい戦果が書かれておりません。

わかる範疇で言えば、佐久間信盛・蜂屋頼隆の隊だけで、50余りの首を挙げたとか。他には「四方を囲んで城の外構を破り、火を放って攻め立てた」とだけあります。
ともかく一方的な展開だったのでしょう。

そんな織田軍の進撃の早さや、援軍が見込めない状況を悟ったか。
義昭もここにきて、ついに降参を選びます。結果は……。

 

「恨みに恩でむくいるのだ」

義昭の京都追放で終わりました。

信長に上洛を頼み、将軍にして貰っておきながら、武田信玄や浅井朝倉、本願寺などと手を組み信長包囲網を築き、結果、こうして完敗となったのですから切腹に処されても全くおかしくない話でありましょう。
晒し首でも不思議じゃありません。

しかし信長は、義昭の幼い嫡子を人質にとっただけで、追放だけにとどめたのです。

その上、妹婿である三好義継の居城・若江城(東大阪市若江南町)まで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に警護させて送らせる丁寧ぶりです。
義昭の奥向に仕える女性たちも、徒歩ではあったが無事退去しました。

敗軍の将やその身内に対する処置としては、寛大すぎるほどです。

このとき信長は「義昭を殺さず追放だけで終わらせたのがどういう判断だったか?それは後世の人間に任せる」として「恨みに恩でむくいるのだ」なんて凄まじくカッコいいセリフを残しております。

信長は魔王どころか裏切り者にも優しい。
そういった評価を裏付ける言動の一つです。

『信長公記』での記述ですので、差っ引いて考える必要はあるかもしれませんが……とにかく単純に残虐な人間ではないことだけは間違いないでしょう。

 

税の免除で京都住民の好感度UP

義昭が退去した後の槙島城には、細川京兆家の当主であり、信長の妹婿でもある細川昭元を入れ、守らせることにしました。

そして7月21日には京都へ凱旋。
他に義昭方で粘っている者の対処にかかります。

比叡山の麓の一乗寺には、渡辺昌と磯貝久次が立てこもっていました。
こちらは義昭追放の報を受けてか、あっさり降参・退去しています。

それでも久次は信長に従いたくなかったらしく、しばらく紀伊に隠れていたようですが、天正六年(1578年)に見つかって殺されたようです。

また、静原山には山本対馬守が砦を構え、やはり長期戦の準備をしていました。
こちらは明智光秀が包囲したとあり、その後どうなったのかは諸説あってはっきりしていません。

もう一つ忘れてはならないことがあります。

この戦では、信長や義昭ら武士の都合で、せっかく賑わいを取り戻してきた京の町を焼くことになってしまいました。
世間の評判を気にしてきた信長としては、とても放置できるものではありません。

そこで信長は
「この度の騒動では、上京に放火して一般人に迷惑をかけたから、しばらく税を免除する」
といい、町の復興に専念させることを決めました。

「京都市民もありがたがり、町は元通りに復興できた」

信長公記にもそんな風に記されています。
この辺も、いささか表現が大袈裟かもしれません。

いずれにせよ、これまで信長包囲網の旗手になっていた足利義昭が京都からいなくなり(最終的に義昭は毛利を頼る)、やっと厄介事が一つ片付きました。

京都の政務は村井貞勝に任せ、信長自身は休まずに次の敵へ備えます。
敵とは……。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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