前回の第11話で取り上げた萱津の戦い(かやづのたたかい)。
織田信友(清州城)の家老・坂井甚介を討ち取り、力を削いだ織田信長は、いよいよ清州城そのものの攻略を始めます。
とはいえ、戦は多くの人の力で成り立つもの。
信長が偉大な人物であることは間違いありませんが、一人でできることには限界があります。
今回は、清州城攻略の過程でイイ仕事をした、とある小者(身分が低い家来)のお話です。
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清洲の若い侍大将に近づき男色関係に……
彼の名は梁田弥次右衛門(やなだやじえもん)。
後述する過程からすると、「身分は低いながらになかなかのキレ者で、外見も割と良い」人物だったと思われます。
『清洲で下っ端としていつまでもこき使われているのは嫌だ。
噂では、那古野城の信長様は、身分の低い小姓を自ら率いるような方らしい。
そういう人の下でなら、手柄を立てて出世できるかもしれない』
そんなことを考えていた弥次右衛門は、信長に内通するための計略を立てます。
裏切るにしても、弥次右衛門のような小身が一人で行ったところで、出世は望めませんからね。
まず彼は、那古野弥五郎という清洲の若い侍大将に近づき、男色関係になりました。
こう書くとなんだかいやらしく感じる方もいるかもしれませんが、当時の男色は出世手段のひとつ。
少々補足しておきましょう。
紀元前から同性愛の存在は確認
男性同士・女性同士問わず、同性愛は紀元前の頃から世界各地で存在していました。
古い時代であればあるほど、女性を中心とした記録は残りにくいので、歴史を語る際はほとんど男性同士=男色の話題が多くなります。
一神教を主流とする国や地域では、同性愛をタブー視されるのも早かったようですが、多神教の国ではさほど厳しくない傾向があります。
これは私見ですが、
◆一神教の国=ヨーロッパや中東がほとんど=気候が厳しい地域=元々人口増加の条件が厳しい
↓
◆「同性愛を認めていたら、そのうち人口が減る一方になるじゃないか! 禁止だ禁止!!」
という流れでそうなったのかなぁ?と。
タブー視されていた国でも、全く同性愛がなくなったわけではありません。
西洋の絵画でも、さまざまな時代で同性愛を描いたものがあります。
【友情や忠誠の証】とされることも
一方、これが多神教の多いアジアになると、かなり様相が変わります。
特に男性同士の同性愛、あるいはそれを思わせるような描写は、
【友情や忠誠の証】
とされることも珍しくありません。
多神教の国は比較的温暖な地域が多いので、本能的に人口調整を図ったのかもしれませんね。
古い例では、三国時代における魏の曹操&夏侯惇、呉の孫策&周瑜、蜀の劉備と諸葛亮などに、同性愛めいた表現がされることがあります。
実際に彼らがそういう関係だったかどうかはわかりません。
が、世間一般で珍しくなかったからこそ、彼らにも当てはめられるようになったのでしょう。
他、中国にも男色をテーマにしたさまざまな説話があります。
室町の頃になると【武士が美少年を寵愛する】
そんなわけで、中国文化の影響が強い日本でも、男色は古くから存在していました。
記録としては「いつ頃からあったのか?」という具体的なタイミングはわかりませんが、時代区分でいう「古代」からあったのは確かです。
特に、平安時代の公卿・藤原頼長の日記である「台記」には、その辺の赤裸々な事情が記されています。
公家の日記って、私的な記録というより子孫や後世への模範としてつけられることが多いんですが、彼は何を教えたくて事細かに書いたんですかね……。
まあそれはさておき、時代が下って室町幕府の頃になると、
【武士が美少年を寵愛する】
ことが増えてきます。
日本における男色のルーツとして、
「女犯禁止の僧侶が、禅寺に入った美少年に手を出すようになった」
ことが挙げられますが、室町時代には禅宗と武士の関わりが強くなってきたために、男色も広がりをみせたのでしょう。
こちらの有名な例では、室町幕府三代将軍・足利義満ですかね。
若き日の世阿弥の芸だけでなく、美貌を愛してそういう関係になったといわれています。
そして……。