絵・富永商太

信長公記

男をオトして城も落とす~戦国初心者にも超わかる信長公記12話


古代ギリシアの「神聖隊」にも似通った

かくして、武士の間での男色は、いつしか「風流・文化的なもの」とみなされるようになりました。
能や狂言の演目にも、男色をテーマにしたものが数多く存在します。

戦国時代には「戦場に女性を連れて行くと、風紀が乱れる元になる」ということから、男色がむしろ推奨されるようになりました。

現在でも誤解されがちですが、同性愛だからといって手当たり次第に不特定多数を相手にするわけではなく、忠誠や信頼のもとに関係を結ぶので、「男色関係の相手」=「戦場であっても信頼できる相手」ということになるからです。

これは古代ギリシアの「神聖隊」とも少し似通ったところがあります。

神聖隊というのは、男性同士の恋人だけで構成された軍隊です。
なんでそんな部隊ができたのかというと、神聖隊があったテーバイという町では元々男色関係の人々が多く、お偉いさんたちが

「それなら、男色関係の者同士で軍を作ろう。
誰だって愛する人に無様なところなんて見せたくないんだから、強い軍になるに違いない!」

という、ポジティブな発想の転換をしたからでした。

この部隊は後々、紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王子時代のアレクサンドロス大王に大敗してしまい、その後再び結成されることはなかったのですが……アレクサンドロスの父・ピリッポス2世は、神聖隊の健闘ぶりを大いに称え、その亡骸を見て感涙したといわれています。

そういう例がありますから、戦国時代の男色関係にあった者同士も、勇猛さや結束力はピカイチだったでしょうね。
逆にいえば、戦国時代に男色関係を結ぶということは、「私は、貴方と一蓮托生の覚悟でいます」と宣言するも同じことです。

長くなりました。
話を弥次右衛門と弥五郎に戻しましょう。

 


弥次右衛門の手引きで軍を清州城へ

こうした価値観の時代に男色関係となった二人。

弥次右衛門は弥五郎に
「清州城内を分裂させて、信長様の元で出世したほうがいいですよ」
と寝返りを勧めます。

弥五郎はまだ16~17歳くらいの若者でしたから、野心もあったでしょう。
あっさり寝返りを決めました。

これが弥次右衛門の親切心だったのか、ただ単に利用しただけなのかはわかりません。
なにせ、彼らの名がここにしか出てこないので……。

さらに弥次右衛門は、清州城のお偉いさん複数名に似たような話をし、彼らを手土産に信長へ
「これからは貴方様に忠節を尽くします」
と申し入れました。

信長はこれを喜び、弥次右衛門の手引きで軍を清州城へ進めます。
城下町を焼き払って城を裸同然にしましたが、さすがにすぐ落城とはいきませんでした。

清州城

しかし、弥次右衛門の計略によって清洲衆の多くが疑心暗鬼に陥り、結束が緩んでいきます。

また、信友の権威の源である、本来の尾張守護・斯波義統も、
『信友より信長のほうがイケてんじゃね?』
と感じ、信長に接近し始めました。

それによって、歴史がまた動いていきます。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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