太田牛一の『信長公記』が史料の中でも突出しているのは、日常生活についてもオモシロイ記述があるからでしょう。
戦国大名としての織田信長も確かに魅力的。
しかし、人間らしい部分が見えたほうがより身近に感じられて、余計に興味も湧いてくる――。
今回もその類の話です。
皆さんの信長イメージが、また一つ変わるかもしれません。
信長が「仮装踊り」を主催
ある年の7月18日、信長が「仮装踊り」を主催しました。
突然ナニ言ってんだコイツは?
と思われるかもしれませんが、まぁ先へ進めていただければ幸い。
時期的には「盆踊り」と似たようなものですね。
日本に限らず、仮装は「妖怪や悪魔への威嚇」あるいは「仲間だと思わせることによって連れ去られたりしないようにする」という意味合いがあります。
死者の魂が帰ってくるとされるお盆の時期。
特に踊りのような場面では、見知らぬ人も混じる可能性もあります。
その中に幽霊や妖怪がいるかもしれないと思われていたからこそ、仮装でイタズラや誘拐を防ごうとしたのです。
家中や地域の結束・親善を図ろうと?
現代でも地域によっては
「旅人が思い思いの服装で踊ったのが始まり」
とされる仮装での盆踊りもありますね。
信長の場合、ただ単に好きだからやってた可能性もありますかね。あるいは、家中や地域の結束・親善を図ろうとしたのかもしれません。
戦では、地元民の協力を仰ぐことが勝利に繋がる場合もあります。
これまた源義経の話ですが、一ノ谷の戦いにおける有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」は、地元の猟師に「鹿が通れる道ならあります」と聞いていたからこそ、できた急襲作戦です。
14話で述べたように、信長は義経の故事を引き合いに出したことがありますので、そうした視点があってもおかしくはありません。
後の巻でも、信長はレジャーのように見える戦支度を度々しています。趣味と実益を兼ねることも、彼のポリシーだったのでしょうか。
仮装キャラ人気No.1は弁慶だった!?
話を戻しましょう。
このときは信長の家臣の家来(陪臣)達も含め、かなりの人数が仮装で参加していたようです。
◆赤鬼→平手内膳の家来
◆黒鬼→浅井備中守の家来
◆餓鬼→滝川一益の家来
◆地蔵→織田信張の家来
などが、信長公記には書かれています。
この場合の「餓鬼」は子供のことではなく、仏教における輪廻転生を分類した六道のうち「餓鬼道」に生まれた者のことです。
文字通り餓えと乾きに苦しみ、どんなに食べても満たされることがないとされています。
子供のことを卑語で「餓鬼」というのは、「子供がよく食べる様子は餓鬼に似ているから」だそうで。
また、信長の家臣も仮装をしたようです。
◆弁慶→前野長康・伊藤夫兵衛(ぶへえ)・市橋利尚・飯尾定宗(いいのおさだむね)
◆鷺(さぎ)→祝康正(はふりやすまさ)
彼らもかなりガチの仮装をしていたらしく、牛一は弁慶になった面々を「特に器用に扮装した」、鷺になった康正については「よく似合っていたそうだ」と記しています。
にしても鷺の仮装が似合う人って、一体どんな顔や体格の人だったんですかね……。細身だったんでしょうか。
信長「小鼓を打ち、女踊りをした」
言い出しっぺの信長ももちろん仮装しています。
天人(てんにん)の格好だったとか。
具体的にどんな衣装だったのかわかりませんが、仏教でいうところの天人だと「普通の人間よりは仏に近いが、悟りを開いていない者」とされるため、仏像のようなゆったりした衣装だと思われます。
ずっと後の時代のものですと、菱川師宣の「天人採蓮図(千葉市美術館HP)」という絵辺りから連想すればよいですかね。
こちらに描かれているのは女性ですが、信長公記では仮装をした信長が「小鼓を打ち、女踊りをした」とあるので、女性物を着ていたのでしょう。
信長が特異というわけではなく、当時は「傾奇者(かぶきもの)」という特異な服装や言動を好む者たちの間で、女性物を取り入れたファッションも流行っていました。
別段珍しいことではありません。
踊りのような賑やかな場なら、なおさら傾(かぶ)いた格好の人は多かったことでしょう。
返礼の村人に対して労をねぎらいお茶を勧め
信長は、津島(愛知県津島市)にあった堀田道空の屋敷の庭でも踊ってから、清洲へ帰っています。
道空は斎藤道三に仕えていましたので、おそらく「元」道空の屋敷であって、当時ここには住んでいなかったのでしょう。
これは私見ですが……信長は寂れていた屋敷を家臣や村人たちに見せて、「お前ら、こんなところを荒れたままにしておいていいと思うか?」と気付かせたかったのかもしれません。
この場所がどのあたりなのか、広さがどのくらいだったのかはわかりませんが、踊りができるくらいですから、そこそこの敷地があったはずですしね。
後日、津島周辺の五ヶ村の人々が清洲へ返礼の仮装踊りをしに行きました。
踊りを見終わった後、信長は彼らを身近に呼び、仮装の出来を褒めたり、うちわで扇いでやって労をねぎらったり、お茶を勧めたりしたといいます。
村人たちは信長の親切に感動して涙を流し、帰っていったとか。
信長公記には過剰表現がままありますが、
「信長が一般人に優しい振る舞いをした」
という話は多々あるので、少なくとも全くのウソではないでしょう。
こうしたエピソードがほとんど知られていないのは、魔王という一面ばかりクローズアップされた弊害かもしれませんね。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)