絵・富永商太

信長公記

元服・烏帽子・諱と通称~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第3話

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信長公記』首巻3節から、いよいよ織田信長本人がご登場!
天文十五年(1546年)、父・織田信秀の居城・古渡城で元服をしました。

満12歳。
当時としては平均といえます。

ただし、この節、
「信長様が元服したのはこの年で、翌年初陣したよ」
ということしか書かれていません。

それで終わらせるのもヒドイ話なので、ここでは「元服・烏帽子・諱と通称」についても確認。
日本史や戦国に触れる限り何度も出てくる話なので、モヤモヤしている知識をスッキリさせておきましょう。

 

烏帽子は大人のマナーなり

「元服は、現代でいう成人式のこと」
というところまでは、ご存じの方も多いでしょうか。

男子を指す場合が多いのですが、江戸時代以降は女子の成人も「元服」と呼ぶことがあります。

とはいえ、大体の場合は武家男子の成人に関する儀式を「元服」といいますね。

元服では、さまざまなものを子供用から大人用に切り替えます。

まずひとつは髪型。
元服するときに、それまでの子供の髪型から大人の髷(まげ)に整え、烏帽子を被るようになります。

当時の常識では頭頂部を隠すのがマナーなので、
「マナーを守らなければならない歳になった=大人になった」
ということです。

わかりやすいのが源義経の肖像画ですかね。

義経/wikipediaより引用

あるいは武田信玄とか。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

肖像画って大体烏帽子をかぶっていると思うのですが、実はここに改革を起こしたのも信長では?という話があります。

ご覧ください。

織田信長/wikipediaより引用

烏帽子が無いですよね。
このパターンは信長が最初ではないか、と本郷和人教授の御著書『戦国武将の選択』で記されておりました。

とりあえず戦国時代の武家の場合は、改まった儀式以外の場で烏帽子を被ることはあまりなかったようです。

 

自ら「烏帽子親」となったケースは多い

元服の儀式において、元服する本人に烏帽子を被せる人を「烏帽子親」といいます。

成人する人の親戚や、家臣の中でも重要な立場にある人に任されることが多いですね。
実親のケースもありますが、基本的には成人後の後ろ盾になるような人が選ばれました。

【信長の烏帽子親が誰だったのか】
についてはよくわかりませんでしたスイマセン。長じた後、信長が烏帽子親になった戦国武将はたくさんいるんですけどねぇ。

例えば長宗我部元親の息子・長宗我部信親が、信長を烏帽子親に頼んだ敬意は興味深いものがあります。その詳細については【人物伝】長宗我部元親をご覧ください。

 

(いみな)をみだりに呼ぶのは不吉で失礼

幼名を改め、大人の名前になるのも元服後のことです。

信長の場合は、この日まで「吉法師」と呼ばれていたのが「信長」と名乗るようになりました。

また、当時の社会通念として「本名(・いみな)をみだりに呼ぶのは不吉で失礼」にあたるため、元服時に日常で使う名前=通称も決めます。

信長の通称は「三郎」です。
生まれ順が三男だから、というのもありますが、これは父・信秀と同じ通称です。
「信」の字とともに父と同じ通称を使うことによって、正式な跡取り息子であることを示す意味があります。

このため、元服以降しばらく、信長の名を「織田三郎信長」と表記していることが多くなります。
欧米圏の名前でいうミドルネームみたいな語順になりますが、通称の場合はむしろファーストネームと同じくらい重要なので、その違いを覚えておくと便利かもしれません。

 

上総介や右大将……通称は社会的立場で変わる

また、通称については、本人の社会的な立場で変わります。

特に戦国時代の場合、官職を自称することも多いので、コロコロ変わりました。
江戸時代の武士も、出世や転封などでしょっちゅう変わりますね。

信長の場合は、元服時に決めた「三郎」の他、後々自称するようになった「上総介(かずさのすけ)」、右近衛大将に任官されて以降の「右大将(うだいしょう)」などがあります。

特に手紙や記録の上では「右大将」「右府」と書かれることが多いのですが、時期や時代によって信長を指す場合もあれば、全く別の人物を指すこともあるのがややこしいところ。
だいたいは前後の文章や日付から判断できます。

とはいえ、一般書や歴史小説・映像作品では、わかりやすさを優先して本名を使うことが多くなっています。
直に書状や古文書を読むのでもなければ、まぁ、大きな問題にもなりませんしね。

長々と書いてきましたが、
「信長の場合は、現在の小学六年生くらいの歳で、大人として扱われるようになった」
ということだけわかれば、この節はひとまずOKです。

 

初陣は意外と地味?

翌年=天文十六年(1547年)の初陣については、
「今川軍との小競り合いだった」
ということしか書かれていません。

天文十一年(1542年)の第一次小豆坂の戦い以降、信秀は今川軍との戦いを繰り返していたので、そのうちのどれかと思われます。

父の居城での元服、そして父の目下最大の的である今川軍との戦で初陣を果たしたことは、「コイツが跡継ぎだ」と家中に広く知らしめる意味もあったでしょう。

といっても、少年時代の信長の行いは、現在でも知られている通り、決して常識的ではなかったのですが……その話はまた後の節で出てくるので、後日改めて。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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