織田家 信長公記

無名だが重要な信長の側近「長谷川与次・市橋長利・長谷川宗仁」信長公記158話

今回から『信長公記』巻十一、舞台は天正六年(1578年)に入ります。

その最初は、巻七と同様に元日1月1日のお話。

各地の大名や武将が織田信長のもとへ挨拶に来たところから始まります。

巻七(1574年)のときは「京都及び近隣諸国」の人々が中心でしたが、巻十一では「五畿内・若狭・越前・尾張・美濃・近江・伊勢など」と記されていて、着実に勢力を広げる雰囲気が伝わってきます。

このときは以下の武将たちを招いて、茶の湯の会も開かれました。

・織田信忠
・武井夕庵
・林秀貞
・滝川一益
・細川藤孝
・明智光秀
・荒木村重
・長谷川与次
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・市橋長利
・長谷川宗仁

跡継ぎの織田信忠を筆頭に、藤孝や光秀、秀吉、長秀など、いずれも織田家の重要メンバーだらけ。

ただ、あまり登場していなかった人物もいます。

彼らは知名度こそ低いものの、割と大切な役割を与えられたりする重要人物だったりするので、何人か見て参りましょう。

まずは長谷川与次から!

 

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長谷川与次

長谷川与次と書いて「はせがわよじ」と読みます。

身分は高くないながら、信長に長く仕えてきた人物です。

最初は信長馬廻衆の一人だったと考えられ、【野田城・福島城の戦い】や【長島一向一揆】での活躍が記録されています。

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信長の信頼も厚かったのでしょう。

途中から信忠のもとで戦場にも赴き、武田勝頼を倒した【甲州征伐】では武田信豊(武田信繁の次男)の首を信長に持参。さらには恵林寺焼き討ちの奉行(責任者)も務めています。

本能寺の変後は、三法師の傅役を経て、豊臣秀吉に仕えました。

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市橋長利

市橋長利はもともと斎藤氏に仕えていました。

美濃青柳城や福塚城に居たといい、割と早い段階から信長に仕えて美濃攻略を手伝っていた可能性もあります。

その後は【姉川の戦い】や佐和山城攻めに参加。

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信長の馬廻衆として、西美濃三人衆に次ぐ存在だったと目されています。

【西美濃三人衆】
・稲葉一鉄
・安藤守就
・氏家卜全

この頃は信忠直下の武将となっており、本能寺の変後は秀吉に仕えました。

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長谷川宗仁

長谷川宗仁(そうにん)は信長の奉行衆であり、茶人でもあり、絵師でもあります。

元々は京都の有力町衆の一族で、堺の商人・今井宗久とも組んだりしており、後に政治的・経済的な繋がりを通して信長へ仕えるようになりました。

その後は意外と物騒なお仕事をされています。

というのは朝倉義景の首を京都に送って獄門にかけたり、武田勝頼の首を同じく京都に晒したり。

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本能寺の変後は上記のメンバーと同じく秀吉に仕え、伏見の豊臣直轄領で代官となりました。

秀吉になかなか重用されたのは、茶人・商人として今井宗久だけでなく、武野紹鴎とも付き合いがあったり、また絵師として名護屋城本丸の障壁画を狩野光信と共に手掛けたりしたからでしょう。

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世間にはあまり知られておりませんが、かなり有能な文化人だったんですね。

茶頭を務めた松井友閑は別の機会に詳しく紹介させていただくとして……。

今回集まったメンツを総括しますと、【文武に渡って当時の織田家を支えていた中心人物】というところでしょうか。
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