今回から『信長公記』巻十一、舞台は天正六年(1578年)に入ります。
その最初は、巻七と同様に元日1月1日のお話。
各地の大名や武将が織田信長のもとへ挨拶に来たところから始まります。
巻七(1574年)のときは「京都及び近隣諸国」の人々が中心でしたが、巻十一では「五畿内・若狭・越前・尾張・美濃・近江・伊勢など」と記されていて、着実に勢力を広げる雰囲気が伝わってきます。
このときは以下の武将たちを招いて、茶の湯の会も開かれました。
・織田信忠
・武井夕庵
・林秀貞
・滝川一益
・細川藤孝
・明智光秀
・荒木村重
・長谷川与次
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・市橋長利
・長谷川宗仁
跡継ぎの織田信忠を筆頭に、藤孝や光秀、秀吉、長秀など、いずれも織田家の重要メンバーだらけ。
ただ、あまり登場していなかった人物もいます。
彼らは知名度こそ低いものの、割と大切な役割を与えられたりする重要人物だったりするので、何人か見て参りましょう。
まずは長谷川与次から――。
長谷川与次
長谷川与次と書いて「はせがわよじ」と読みます。
身分は高くないながら、信長に長く仕えてきた人物です。
最初は信長馬廻衆の一人だったと考えられ、【野田城・福島城の戦い】や【長島一向一揆】での活躍が記録されています。
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信長の信頼も厚かったのでしょう。
途中から信忠のもとで戦場にも赴き、武田勝頼を倒した【甲州征伐】では武田信豊(武田信繁の次男)の首を信長に持参。さらには恵林寺焼き討ちの奉行(責任者)も務めています。
本能寺の変後は、三法師の傅役を経て、豊臣秀吉に仕えました。
市橋長利
市橋長利はもともと斎藤氏に仕えていました。
美濃青柳城や福塚城に居たといい、割と早い段階から信長に仕えて美濃攻略を手伝っていた可能性もあります。
その後は【姉川の戦い】や佐和山城攻めに参加。
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信長の馬廻衆として、西美濃三人衆に次ぐ存在だったと目されています。
【西美濃三人衆】
・稲葉一鉄
・安藤守就
・氏家卜全
この頃は信忠直下の武将となっており、本能寺の変後は秀吉に仕えました。
長谷川宗仁
長谷川宗仁(そうにん)は信長の奉行衆であり、茶人でもあり、絵師でもあります。
元々は京都の有力町衆の一族で、堺の商人・今井宗久とも組んだりしており、後に政治的・経済的な繋がりを通して信長へ仕えるようになりました。
その後は意外と物騒なお仕事をされています。
というのは朝倉義景の首を京都に送って獄門にかけたり、武田勝頼の首を同じく京都に晒したり。
本能寺の変後は上記のメンバーと同じく秀吉に仕え、伏見の豊臣直轄領で代官となりました。
秀吉になかなか重用されたのは、茶人・商人として今井宗久だけでなく、武野紹鴎とも付き合いがあったり、また絵師として名護屋城本丸の障壁画を狩野光信と共に手掛けたりしたからでしょう。
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世間にはあまり知られておりませんが、かなり有能な文化人だったんですね。
茶頭を務めた松井友閑は別の機会に詳しく紹介させていただくとして……。
今回集まったメンツを総括しますと、【文武に渡って当時の織田家を支えていた中心人物】というところでしょうか。
「その素晴らしさは、とても言葉には表せない」
茶会は、六畳の間で行われたそうです。
当然、信長もその場にいたはずですから、計14人が一部屋に集まっていたことになります。
当時の日本人は現代よりは小柄とはいえ、信長は170cm前後あったとされているので、この中には似たような身長の人もいたでしょう。
想像してみると、ちょっと狭苦しい感じがしますね。
『信長公記』には、この茶会で飾られていた品や使われた茶道具などについても詳しく記されています。
・玉澗の岸の絵
・西に「三日月」の茶壺、東に「松島」の茶壺
・四方盆に「万歳大海」の茶入
・水指(みずさし)「帰花(かえりばな)」
・珠光の茶碗
・囲炉裏に姥口(うばぐち)の釜を吊った
・花入れは筒型
水指というのは、茶釜に足す水や茶道具を洗うための水を入れておく容器です。
また「姥口の釜」というのは老女の口のように、すぼまった口をした釜のこと。
茶会が終わった後に他の武将たちも出仕し、三献の作法で盃を振る舞われたようです。
酌は矢部家定・大津長治・大塚又一郎・青山忠元。その後、皆に御殿の見物が許されました。
障壁画は狩野永徳の手による濃絵(だみえ)で、三国の名所が描かれていたといいます。
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名物道具もたくさん飾られており、太田牛一は
「その素晴らしさは、とても言葉には表せない」
と感嘆の念を記しています。
見物の後は、座敷に召された全員に、雑煮と舶来の菓子が与えられたとか。
どのような菓子だったのかという記載は残念ながらありませんが、以下に三英傑(信長・秀吉・家康)に関する菓子の記事があります。
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後に、信長が家康を安土城に招いて接待したときに出された菓子が
・羊羹
・薄皮饅頭
・羊皮餅(詳細は不明)
・まめあめ(大豆をいり飴で固めたもの)
・おこし米(餅米を入り飴で練ったもの)
でした。
舶来の菓子となると、上記のラインナップとは異なりそうですが、いずれにせよ甘いお菓子は凄まじく貴重な品であり、信長が天下人として君臨していく様子が浮かび上がってきますね。
万見重元の屋敷でも茶会
4日には、万見重元(まんみしげもと)の屋敷でも茶会が開かれました。
前年末に信長から信忠へ贈られた茶器を披露するのが目的。
このとき招かれたのは、
・武井夕庵
・松井友閑
・林秀貞
・滝川一益
・長谷川与次
・市橋長利
・丹羽長秀
・羽柴秀吉
・長谷川宗仁
以上の9名ですので、メンツはほとんど同じですね。
主催や茶頭については記載されていません。
この後、信長から長利に「芙蓉の絵」が下賜されたとあるので、信長と信忠の主催でしょうか。
和やかな年明けは安土だけでなく、京都でも同じでした。
次回はこの年の京都の様子が語られます。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
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