織田信長は三河の吉良(愛知県西尾市)で鷹狩をするため、安土を出発しました。
吉良とは、あの吉良上野介義央と縁の深い土地柄で、『信長公記』では以前にも一度、この地で鷹狩をした記録が残されています。
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※左から(すべて黄色)安土城・佐和山城・岐阜城・清州城と来て、紫色が吉良
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秀吉に褒美を与えよ
鷹狩に向かう信長はことのほか上機嫌でした。
かなり過酷な運動になるはずですが、信長にとっては現代のゴルフ感覚だったんですかね。
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というのはさておき、なぜ信長の機嫌が良かったのかと申しますと、このころ羽柴秀吉(豊臣秀吉)の播磨攻略が首尾よく進んでおり、
「秀吉が帰ったら、この乙御前(おとごぜ)の釜を褒美として渡すように」
と言付け、それから吉良へと出かけているのです。
「乙御前の釜」というのは固有名詞ではなく、「乙御前」という「形状」を指します。
全体的にふっくらとした形の釜で、下に向かって広がった形状の「尻張釜」や、浅く広い「平釜」と比較するとわかりやすいでしょうか。

筋文乙御前釜/文化遺産オンライン
「布団釜」という、平釜と乙御前の中間のような形もあります。
茶道の大家・千利休が平釜を好まなかったため、この時代の茶釜はふっくらした形状のものが流行ったようですね。
少々余談になりますが、利休は茶釜に限らず、”ふっくらした形””や”黒色の茶道具”を好んでいたと思われます。「利休好み」とされる名物に、そうした特徴のものが多いからです。
後々かの有名な”黄金の茶室”を作った秀吉と比べると、趣味のベクトルが真逆に近かったであろうことがうかがえますね。
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信長はというと、茶道具や芸術品については自分の好みではなく、
「名物と呼ばれており、世間的に価値が高いと認められているかどうか」
を重んじていた節があります。
秀吉や利休とはまた違った視点が感じられます。
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モノひとつからしても、それぞれの価値観がうかがえて興味深いですね。
この日の獲物は雁や鶴
閑話休題。
この日、信長は佐和山に泊まりました。
垂井を経由して12日に岐阜に到着し、翌日は滞在しています。
年末には織田信忠が安土へ行き、そのまま正月を迎えています。
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この岐阜滞在のときに、出発の日時やその準備に関する指図などをしたのかもしれません。
14日に信長は清洲に到着し、15日に吉良で鷹狩を行いました。
この日の獲物は雁や鶴が多かったとあります。
後の節によると、生け捕りにした鶴も複数いたようで、この点は次々回に登場します。
19日に岐阜へ帰還しましたが、その道中で過失を犯した者を信長が手討ちにしたとか。
手討ちになった者の名前も、それ以外の情報が全く書かれておらず……一体、何があったのでしょう。
20日も岐阜に滞在していたようで、安土へ帰ったのは21日のことでした。
「初花」の茶入や「松花」の茶壺など
そして話は『信長公記』巻十のラスト、天正五年(1577年)暮れへと向かいます。
大晦日も近い12月28日。
信忠が岐阜から安土へ参上し、丹羽長秀の屋敷を宿所としました。
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信長は寺田善右衛門という者を使者として、信忠へ名物の数々を贈ります。
茶道具、及び床の間などに飾る芸術品といったところですね。
平沙落雁図は中国の画家・牧谿(もっけい)作といわれている名画です。
元は足利将軍家に伝来したものでしたが、松永久秀の手に渡り、その後信長が手に入れたと考えられています。
曲直瀬道三は、当時の名医として知られた人物。
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正親町天皇や毛利元就を診察したこともあり、皇族や公家・武家との交際手段として茶道も嗜んでいたようです。
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