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【信長から信忠への贈り物】
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またまた名物を贈る信長
これに加え、信長は翌29日にもう一度使者を立て、信忠に名物を贈りました。
この日の使者は松井友閑です。
・珠徳(しゅとく)作の茶杓
・武野紹鴎(たけの・じょうおう)旧蔵のひょうたんの炭入れ
・古市澄胤(ふるいち・ちょういん)旧蔵の高麗箸(火箸)
珠徳は、当時名の知られていた茶道具職人です。生没年や足跡は詳らかではありません。
武野紹鴎は堺の豪商でした。
弘治元年(1555年)に亡くなっているので、信忠からすると「自分が生まれた頃のすごい商人」といった感じでしょうか。
古市澄胤は紹鴎よりさらに前の時代の僧侶で、永正五年(1508年)に亡くなっています。
古市家には「淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)」という習慣がありました。これは、夏場に水風呂で汗を流し、その後飾られた名物などを見て茶を飲むという、なかなか変わった催しです。
茶の後に酒宴が行われることなど、今日一般的にイメージされる「茶道」とはかなり異なるものでした。
澄胤も淋汗茶湯をあまり好まなかったのか、わび茶の創始者とされる村田珠光の一番弟子になったといわれています。
領地の代わりに名物を?
いずれも負けず劣らず、まさに「名物」と呼ぶにふさわしいものばかり。
信長が何を考えて信忠に贈ったのか?
明確な記載はありません。
しかし、これまで信長が名物を恩賞として用いていたことを考えると、信忠に
「今後、褒賞として配る領地が不足しそうなときは、この名物を渡せ」
と教えたかったのではないでしょうか。
当時はまだ毛利家の君臨する中国進出も序盤戦というところですが、順調に攻略が進めば、いずれ召し抱えている家臣の数と領地の釣り合いが取れなくなる可能性はあります。
信長にしても、既に40歳を超えていましたから、いつ健康上の問題が起きてもおかしくありません。
戦国大名にとって大切なのは、戦に勝ったり領地を広げたりすることだけではなく、死後も「自分の家が続いていくこと」です。
そのためには、自分が健康なうちにに家督と財産を相続しておかなければなりません。
織田家の場合は家督の譲渡は済んでいましたので、少しずつ財産も……という状況でしょうか。
今回は地味な話になりましたが、おそらく、この名物譲渡にはそういった意味があったと思われます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)