今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十八節」で、各地の戦国大名・武将の名が数多く登場します。
なかでも戦国ファンにとって見どころなのが武田と北条の争い。
両軍は全面戦争へと突入していくのです。
※『信長公記』の前話が以下となりますが、本連載は一話毎に成立しており、そのままお読みいただいて問題ありません。
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氏政が甲斐へ向けて進軍
天正七年(1579年)10月25日、相模の北条氏政が織田信長に味方するとの一報が入りました。
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北条軍は甲斐へ兵を進めようと進軍し、『信長公記』ではその軍”6万”と書いてありますが、実際はもっと少ないでしょう。
信長のもとへ連絡が届いたのが天正七年10月25日なので、実際に兵を進めたのはそれ以前、9月のこと。
北条軍は、黄瀬川を隔てて三島に陣を構えました。
これに対し、武田勝頼も出陣。富士山の麓・三枚橋に布陣します。
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両者の詳しい位置については記述がありませんが、北条軍はおそらく現在の三島市内・黄瀬川の東、武田軍は黄瀬川の西かつ富士山との間辺り、と考えるのが良いでしょうか。
武田氏が、この時期の北条氏対策として、三枚橋城(現在の沼津市大手町)を築いた点からすると、同城の付近とも考えられます。
徳川家康もこの動きを受け、直前の9月5日に同盟を結んだ北条に味方するべく駿河へ出陣、各地へ火を放ったようです。
ちょうどこの時期、息子の松平信康が武田氏との内通嫌疑から自害させられる事件が起きており、武田勝頼に対する戦意はかなり高揚していた模様……。
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ちょっとややこしくなってきましたね。
もう一つ重要な、甲信越の事情を整理しておきましょう。
上杉の相続争いから武田と北条の同盟決裂
ポイントとなってくるのは、上杉氏のお家騒動である【御館の乱(おたてのらん)】です。
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前年の天正六年(1578年)3月に上杉謙信が急死し、その後継者争いであるこの乱が勃発しました。
謙信の甥かつ養子の上杉景勝と、北条氏から養子入りした上杉景虎の争いです。
領地を隣接する武田氏、景虎の実家である北条氏にも、双方から連絡が入りました。
養子に行ったとはいえ、北条氏からすれば景虎は血縁者。当然、彼らは景虎に味方し、当時同盟を組んでいた武田氏にも「景虎に味方してほしい」と依頼しました。
しかし、景勝が上杉氏と武田氏の和睦交渉、及び同盟を提案。
勝頼は上杉領の割譲を条件にこの同盟を受け入れたと考えられており、実質的には景勝方になりました。
とはいえ武田氏も、北条氏との同盟の手前、いきなり「景勝方につきます」とは言えません。
表向きは中立として、景勝・景虎の調停を取り持とうと動いていました。
ここで徳川家康が武田領へ侵攻したため、勝頼は自領へ戻らざるを得なくなります。
調停者を失った景勝・景虎の両者は戦を再開。
徐々に景虎方が追い詰められ、勃発から約一年後の天正七年3月、景虎が自刃したことで御館の乱は終わりました。
問題は、ここからです。
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