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【武田と北条の全面戦争】
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北条を挟撃するための甲佐同盟
御館の乱の経過により、武田氏と北条氏の甲相同盟は破棄されます。
いざというときにハッキリ味方をしてくれないのでは、同盟の意味がなくなってしまいますものね。
そして北条氏は徳川氏・織田氏と接近。
そんな流れがあったため、
武田・上杉
vs
北条・徳川・織田
このような全面戦争の構図ができたのです。
もしも一堂に会することがあれば、とんだ大戦になっていたでしょう。
戦国ファンとしてはワクワクしてしまいますが、その後のことは『信長公記』には記されていません。
ただし各種史料にその後の経緯が書かれており、一応補足させていただきますと。
北条・徳川という強敵に挟撃された武田軍は言わずもがなピンチな状態。
北条軍と対峙している最中、徳川家康が駿河の用宗城(もちむねじょう)に襲いかかり、武田型の三浦義鏡(よしあき)や向井正重が戦死しました。
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これに対し、援軍を派遣することで対応した勝頼は、自らも江尻に陣を移して北条・徳川両軍との対峙体制に持ち込みながら、越後・上杉軍の助けを待ちました。
さらには常陸の佐竹義重にも「北条を挟み撃ちしよう」と持ちかけ、【甲佐同盟】の締結に漕ぎ着けています。
なかなか外交上手に見えなくもないですが、実際は上野(群馬県)でも北条軍と武田軍がドンパチしており、四方八方での戦を強いられていました。
実は、信長に対しても、佐竹義重を通じて和睦交渉と持ちかけています。
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いずれにせよ、徳川や北条とはそれ以上の激しい戦闘には発展せず、12月上旬には甲府へ戻りました。
ただし北条との同盟は決裂したまま険悪な仲……と、かなり脱線してしまいましたので、話を『信長公記』に戻したいと思います。
越中の神保長住から
天正七年(1579年)10月29日、越中の神保長住が、信長に黒芦毛の馬を献上してきました。
長住もたびたび名前が出てきていますが、前回の登場から少々間が開いているので、軽く経歴をおさらいしておきましょう。
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神保長住は越中の武将で、反上杉派だったことから親上杉派だった父や家臣たちと対立。
流れ流れて織田氏に身を寄せ、謙信が亡くなってから旧領回復のために信長らの助けを受け、越中へ戻っていました。
「黒芦毛」という言い方は今日ではあまり使われませんが、芦毛は黒っぽい肌に白みの強い毛の馬のことです。
加齢によってどんどん白色が強くなるため、「白馬」と呼ばれる馬のほとんどは年をとった芦毛であることが多いとか。「芦毛の怪物」とも呼ばれたオグリキャップの若い頃と、加齢後の写真などがわかりやすい変化の例です。
このとき信長に献上された馬は、おそらくまだ若く、肌の黒色のほうが強く見える馬だったために「黒芦毛」と呼んだのでしょう。
謀殺王・直家が傘下に
再び話題が変わり、10月30日には備前の大名・宇喜多直家の降参を許可したことが書かれています。
代理として、宇喜多基家が小屋野で、対陣中の織田信忠の下へ参上し、礼を述べたそうです。
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基家は宇喜多氏の一族で直家の養子ですが、血縁関係はハッキリしていません。直家は息子にあまり恵まれず、嫡子の宇喜多秀家は元亀三年(1572年)にやっと授かっています。
直家は享禄二年(1529年)生まれとされていますので、まさに待望の男子だったことでしょう。
秀家が生まれなかったら、基家が跡を継いでいたのかもしれませんね。
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取次(とりつぎ)は羽柴秀吉が引き続き行いました。
取次という単語は時代によって意味が変わってきますが、いわば他家と交渉を行う外交役のことです。
交渉そのもののことは「申次(もうしつぎ)」と書かれる場合もあります。
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また、取次の相手と戦になった場合には、そのまま軍事作戦の担当者になることもありました。
秀吉を例に取ると、先に毛利家相手の「申次」を命じられ、平和的な解決が難しかったのでそのまま中国地方攻略を担当した、という流れです。
現代と同様、外交はなかなか難解ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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