武田と北条が全面戦争へ

北条氏政(左)と武田勝頼/wikipediaより引用

信長公記

武田と北条が全面戦争突入|信長公記第193話

2021/11/04

今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十八節」で、各地の戦国大名・武将の名が数多く登場します。

なかでも戦国ファンにとって見どころなのが武田と北条の争い。

両軍は全面戦争へと突入していくのです。

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氏政が甲斐へ向けて進軍

天正七年(1579年)10月25日、相模の北条氏政が織田信長に味方するとの一報が入りました。

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北条軍は甲斐へ兵を進めようと進軍し、『信長公記』ではその軍”6万”と書いてありますが、実際はもっと少ないでしょう。

信長のもとへ連絡が届いたのが天正七年10月25日なので、実際に兵を進めたのはそれ以前、9月のこと。

北条軍は、黄瀬川を隔てて三島に陣を構えました。

これに対し、武田勝頼も出陣。富士山の麓・三枚橋に布陣します。

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両者の詳しい位置については記述がありませんが、北条軍はおそらく現在の三島市内・黄瀬川の東、武田軍は黄瀬川の西かつ富士山との間辺り、と考えるのが良いでしょうか。

武田氏が、この時期の北条氏対策として、三枚橋城(現在の沼津市大手町)を築いた点からすると、同城の付近とも考えられます。

徳川家康もこの動きを受け、直前の9月5日に同盟を結んだ北条に味方するべく駿河へ出陣、各地へ火を放ったようです。

ちょうどこの時期、息子の松平信康が武田氏との内通嫌疑から自害させられる事件が起きており、武田勝頼に対する戦意はかなり高揚していた模様……。

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ちょっとややこしくなってきましたね。

もう一つ重要な、甲信越の事情を整理しておきましょう。

 


上杉の相続争いから武田と北条の同盟決裂

ポイントとなってくるのは、上杉氏のお家騒動である【御館の乱(おたてのらん)】です。

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前年の天正六年(1578年)3月に上杉謙信が急死し、その後継者争いであるこの乱が勃発しました。

謙信の甥かつ養子の上杉景勝と、北条氏から養子入りした上杉景虎の争いです。

領地を隣接する武田氏、景虎の実家である北条氏にも、双方から連絡が入りました。

養子に行ったとはいえ、北条氏からすれば景虎は血縁者。当然、彼らは景虎に味方し、当時同盟を組んでいた武田氏にも「景虎に味方してほしい」と依頼しました。

しかし、景勝が上杉氏と武田氏の和睦交渉、及び同盟を提案。

勝頼は上杉領の割譲を条件にこの同盟を受け入れたと考えられており、実質的には景勝方になりました。

とはいえ武田氏も、北条氏との同盟の手前、いきなり「景勝方につきます」とは言えません。

表向きは中立として、景勝・景虎の調停を取り持とうと動いていました。

ここで徳川家康が武田領へ侵攻したため、勝頼は自領へ戻らざるを得なくなります。

調停者を失った景勝・景虎の両者は戦を再開。

徐々に景虎方が追い詰められ、勃発から約一年後の天正七年3月、景虎が自刃したことで御館の乱は終わりました。

問題は、ここからです。

 

北条を挟撃するための甲佐同盟

御館の乱の経過により、武田氏と北条氏の甲相同盟は破棄されます。

いざというときにハッキリ味方をしてくれないのでは、同盟の意味がなくなってしまいますものね。

そして北条氏は徳川氏・織田氏と接近。

そんな流れがあったため、

武田・上杉
vs
北条・徳川・織田

このような全面戦争の構図ができたのです。

もしも一堂に会することがあれば、とんだ大戦になっていたでしょう。

戦国ファンとしてはワクワクしてしまいますが、その後のことは『信長公記』には記されていません。

ただし各種史料にその後の経緯が書かれており、一応補足させていただきますと。

北条・徳川という強敵に挟撃された武田軍は言わずもがなピンチな状態。

北条軍と対峙している最中、徳川家康が駿河の用宗城(もちむねじょう)に襲いかかり、武田型の三浦義鏡(よしあき)や向井正重が戦死しました。

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これに対し、援軍を派遣することで対応した勝頼は、自らも江尻に陣を移して北条・徳川両軍との対峙体制に持ち込みながら、越後・上杉軍の助けを待ちました。

さらには常陸の佐竹義重にも「北条を挟み撃ちしよう」と持ちかけ、【甲佐同盟】の締結に漕ぎ着けています。

なかなか外交上手に見えなくもないですが、実際は上野(群馬県)でも北条軍と武田軍がドンパチしており、四方八方での戦を強いられていました。

実は、信長に対しても、佐竹義重を通じて和睦交渉と持ちかけています。

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いずれにせよ、徳川や北条とはそれ以上の激しい戦闘には発展せず、12月上旬には甲府へ戻りました。

ただし北条との同盟は決裂したまま険悪な仲……と、かなり脱線してしまいましたので、話を『信長公記』に戻したいと思います。

 

越中の神保長住から

天正七年(1579年)10月29日、越中の神保長住が、信長に黒芦毛の馬を献上してきました。

長住もたびたび名前が出てきていますが、前回の登場から少々間が開いているので、軽く経歴をおさらいしておきましょう。

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神保長住は越中の武将で、反上杉派だったことから親上杉派だった父や家臣たちと対立。

流れ流れて織田氏に身を寄せ、謙信が亡くなってから旧領回復のために信長らの助けを受け、越中へ戻っていました。

「黒芦毛」という言い方は今日ではあまり使われませんが、芦毛は黒っぽい肌に白みの強い毛の馬のことです。

加齢によってどんどん白色が強くなるため、「白馬」と呼ばれる馬のほとんどは年をとった芦毛であることが多いとか。「芦毛の怪物」とも呼ばれたオグリキャップの若い頃と、加齢後の写真などがわかりやすい変化の例です。

このとき信長に献上された馬は、おそらくまだ若く、肌の黒色のほうが強く見える馬だったために「黒芦毛」と呼んだのでしょう。

 


謀殺王・直家が傘下に

再び話題が変わり、10月30日には備前の大名・宇喜多直家の降参を許可したことが書かれています。

代理として、宇喜多基家が小屋野で、対陣中の織田信忠の下へ参上し、礼を述べたそうです。

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基家は宇喜多氏の一族で直家の養子ですが、血縁関係はハッキリしていません。直家は息子にあまり恵まれず、嫡子の宇喜多秀家は元亀三年(1572年)にやっと授かっています。

直家は享禄二年(1529年)生まれとされていますので、まさに待望の男子だったことでしょう。

秀家が生まれなかったら、基家が跡を継いでいたのかもしれませんね。

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取次(とりつぎ)は羽柴秀吉が引き続き行いました。

取次という単語は時代によって意味が変わってきますが、いわば他家と交渉を行う外交役のことです。

交渉そのもののことは「申次(もうしつぎ)」と書かれる場合もあります。

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また、取次の相手と戦になった場合には、そのまま軍事作戦の担当者になることもありました。

秀吉を例に取ると、先に毛利家相手の「申次」を命じられ、平和的な解決が難しかったのでそのまま中国地方攻略を担当した、という流れです。

現代と同様、外交はなかなか難解ですね。

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【参考】
国史大辞典
武田氏研究会『武田氏年表 (信虎・信玄・勝頼)』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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