戦国大名の中で、フットワークが断トツに軽い織田信長。
それでも、前回56~57話で報じたように、在京都の将軍・足利義昭が三好三人衆に襲撃されたことは(本圀寺の変・六条合戦)、防御面があまりに脆いという証左となりました。
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本圀寺の変|将軍就任直後の足利義昭が襲撃された 信長公記第56~57話
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これを受けて、信長は正式な将軍御所の造営が急務と考え、さっそく準備に取り掛かることにします。
将軍の御所造営は旧・斯波邸で
準備にあたって必要なのは、まずお金です。
この問題にあたり、信長はどうしたか?
尾張や美濃などの地元はもちろん、近江や伊勢・三河など。同盟関係にある大名や、その他近畿周辺の14カ国の大名・武将に対して信長は、普請の協力を求めました。
場所は二条の旧・斯波義廉邸。
義廉は応仁の乱頃の人で、政争に破れて尾張へ下った後、最終的に行方不明になっておりました。
京都から離れた後に屋敷がどうなっていたのかは不明ですが、当時の京都の状況などを考えると、そのまま放置されていたのでしょう。
普請奉行には、信長の家臣から村井貞勝と島田秀満が選ばれました。
そして永禄十二年(1569年)2月27日、朝7時半に着工の儀式をし、工事が始まったのです。
藤戸石という名石を運び入れた
実際の工事を始めるにあたっては、武家のほか、京都市中の職人や業者も召集。
近隣から材木なども取り寄せ、滞りなく進んだようです。
将軍御所にふさわしい格式にするため、金銀で飾ったり、庭の造作などにもかなりこだわった作りでした。
また、上洛直後、義昭の宿所に使っていた細川昭元の屋敷からも「藤戸石」という名石を運んでいます。
こちらは信長自ら立ち会うほどでした。
藤戸石の由来について、こんなオマケ話をご紹介しておきましょう。
この「藤戸」は、かつて岡山県付近に存在した藤戸海峡を指します。
江戸時代の干拓や河川の堆積によって、現在は残っていません。
藤戸石はこの海峡の水面に、潮の干満に関係なくいつも顔を出し、まるで浮島のように見えていた石だったそうで「浮洲岩」とも呼ばれており、『平家物語』でも地元の漁師が潮の満ち引きの目印にしていた石として登場しています。
源氏方の佐々木盛綱という武士がこの情報を聞き出すと、
「他の武士に知られたら、俺が先陣を切れなくなる」
と危惧し、その漁師を殺してしまったのだとか。
漁師を殺したところで、藤戸石が目印であるという事実がなくなるわけではないはずなのですが……。
藤戸石は三代将軍・義満にも気に入られ
当時の人々もそう思ったのか。
あるいはシンプルな同情の念からか、
この漁師の悲劇は平家物語や謡曲で語り伝えられました。
それを耳にした室町幕府三代将軍・足利義満が、金閣寺へ持ってこさせたというのです。
せっかくですから現在、醍醐寺にある現物を見てみましょう。
コチラです。
さすが室町一の大将軍。
発想がロマンチックでありながらダイナミックですね。
藤戸石はその後いつしか細川氏の屋敷へ移され、足利義昭の時代になって再び足利家に戻ってきたカタチになりますね。
運ぶときには、綾布(デニムのように斜めの線が入る織り方の布)で包み、花などで飾り立て、さらには笛や太鼓でお囃子まで奏でていたんだとか。まるでお祭りのようです。
同じく、慈照院銀閣(銀閣寺)の「九山八海石」も将軍御所へ運び入れたといいます。
この石の名は、固有名詞ではありません。
仏教の中に”世界の中心にある須弥山(しゅみせん)の周りを、9つの山と8つの海が取り囲んでいる”という世界観があり、石や池を使って再現するという造園の手法だったんですね。
慈照院にもそのように配置した庭石などがあったため、義昭の御所に移したというわけです。
義満の金閣にあった藤戸石と、義政の銀閣にあった九山八海石を使うことによって、義昭の権威を高めようというねらいがあったのかもしれません。
現在の二条城にあった
新将軍御所には、名石だけでなく名木も数多く用いられ、馬場にも桜を植えるなど、大いに趣向を凝らした作りになりました。
さらに、将軍御所の周りには諸大名に思い思いの屋敷を造らせ、威容を高めたとか。
これはおそらく、第二の本圀寺の変を防止する目的も合ったでしょう。
有事の際、ほとんど兵を指揮したことがない義昭が命令するより、経験を積んでいる他の大名たちの家臣の方が、防衛しきれる可能性が高いはずです。
こうして、新しい将軍御所は無事に竣工します。
その後、数多の時代の変遷を経て、現在「二条城」と呼ばれている場所ですね。
信長は竣工のお祝いとして、義昭に太刀と馬を献上したようです。
義昭はまたまた感動し、三献の礼で信長をもてなしたばかりか、手酌をし、さらに剣などを下賜したとか。
その後、この工事に参加した諸大名・諸将には信長から礼を言い、帰国させたようです。
義昭からも何らかの礼なり労いなりはあったと思われますが、信長公記はかなり信長寄りに書かれているためか、そのあたりの記載はありません。
このタイミングで義昭が何もしていなかったとしたら、世間的なイメージは完全に
信長>>>>>義昭
という構図になってしまいますし……。
まあ、この後実際にそうなっていくのですけれども。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(全15巻17冊, 吉川弘文館, 1979年3月1日〜1997年4月1日, ISBN-13: 978-4642091244)
書誌・デジタル版案内: JapanKnowledge Lib(吉川弘文館『国史大辞典』コンテンツ案内) - 太田牛一(著)・中川太古(訳)『現代語訳 信長公記(新人物文庫 お-11-1)』(KADOKAWA, 2013年10月9日, ISBN-13: 978-4046000019)
出版社: KADOKAWA公式サイト(書誌情報) |
Amazon: 文庫版商品ページ - 日本史史料研究会編『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(歴史新書y 049)』(洋泉社, 2014年10月, ISBN-13: 978-4800305084)
書誌: 版元ドットコム(洋泉社・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録――桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月25日, ISBN-13: 978-4121016256)
出版社: 中央公論新社公式サイト(中公新書・書誌情報) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『信長と消えた家臣たち――失脚・粛清・謀反(中公新書 1907)』(中央公論新社, 2007年7月25日, ISBN-13: 978-4121019073)
出版社: 中央公論新社・中公eブックス(作品紹介) |
Amazon: 新書版商品ページ - 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』(吉川弘文館, 2010年11月, ISBN-13: 978-4642014571)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ - 峰岸純夫・片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月1日, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌: 吉川弘文館(商品公式ページ) |
Amazon: 商品ページ







