絵・富永商太

織田家 信長公記

美しすぎる弟・織田秀孝~戦国初心者にも超わかる信長公記18話

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今回の第18話は、人名と城がたくさん出てくるので、ちょっとややこしいところ。
関係する人物と、当時の居城を先にまとめておきますね。

織田信長→清州城主
弟・織田信行→末森城主
叔父・織田信次→守山城主

弟・織田秀孝→今回のキーパーソン

美しすぎる弟・織田秀孝~戦国初心者にも超わかる信長公記18話

今 ...

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現在の地名でいうと、これらの城は愛知県清須市~名古屋市に点在しています。

西から順に

・清州城(黄色)
・守山城(青色)
・末森城(赤色)

という位置関係になっており、最も離れた【清州城~守山城】の距離が、現代の道路で17.5km。
健康な成人であれば、徒歩でも4時間かからずに行けるぐらいですかね。

もちろん、城主たちは血縁者同士ですから「ごく近所の親戚」という意識もあったことでしょう。
戦国時代ですので、安心材料になるかどうかは別の話ですが。

というワケで本題に入ります。

 

川漁は城主定番のレジャーだった!?

ときは弘治元年(1555年)6月26日。
17話で述べた、清州城乗っ取り成功から2ヶ月後のことです。

織田信長の叔父・織田信次は、この日お供を連れて庄内川へ出かけ、川漁をしていました。

15話で出てきた斯波岩龍丸もそうですが、当時のお偉いさんにとって、川漁は定番のレジャーだったようです。

漁は訓練でもありますし、領主の威光を示す機会にもなります。
特に、信次の居城である守山城は庄内川とかなり近いので、これ以前にも川漁へ行っていたことでしょう。

お殿様のお出かけですから、当然、周囲の警戒MAX!
それを知ってか知らずか、一人の侍が騎馬のまま通りかかりました。

「ここに殿がおいでと知っての無礼か! 曲者め、成敗してくれる!」

信次の家来が怒り、騎馬武者を問い詰めようとしました。
しかし、その前に勇んだ洲賀才蔵という者が、矢を放ってしまったのです。

 

美形一族・織田家の中でも際立った評判

騎馬武者のほうは全く警戒していなかったようで。
洲賀才蔵が放った矢は見事に刺さり、馬から転げ落ちました。

話がヤバくなるのはここからです。

信次の家来たちが侍の身元を確かめようと近づいてみると、なんと信長の弟・織田秀孝でした。

才蔵や他の信次家臣ぐらいの身分だと、秀孝の顔を見知っていたかどうかはわかりません。しかし秀孝は、美形一族の織田氏の中でも、ケタ外れの美貌だったと評判でしたので、顔の美しさだけで「もしや」と思ったのかもしれません。

信長公記でも、秀孝の顔については褒め言葉がてんこ盛り。

いわく
「肌はおしろいを塗ったかのように白く、
赤い唇に柔和な姿、
顔形は人に優れて麗しく、
その美しさは例えようもなかった」
と讃えられております。

平安時代の絵巻物の美女たちですら、ここまでの描写はそうそうされません。

秀孝は数えで15~16歳だったので、中性的な美少年だったのでしょうか。
現代ならばジャニーズ事務所入り、間違いなさそうですね。

余談ですが、美女で有名な信長の妹・お市の方も、「37歳のときに20代前半に見えた」と評していた人がおります。
織田氏は全体的に童顔&美形の家系だったのかもしれません。

 

信長&信行とは同母兄弟だったかもしれない

美しさについてはさておき。
大問題です。

「不慮の事故とはいえ、織田氏の当主の弟を、叔父の家臣が殺してしまった」

この頃は、信長の才能が徐々に明らかになっていた時期でもあります。
やってしまった信次としては、恐ろしくて仕方がなかったでしょう。

信次はそのまま一目散に逃げてしまい、しばらく行方をくらませました。やってることが現代の◯◯犯と同じ……というのは、ツッコんじゃいけないところですかね。

秀孝の生母はわかっていないのですが、信長・信行同様、信秀の正室だった土田御前だという説があります。

なぜならその話を聞いた信行が激怒していることです。
たった一人で馬を駆り、末森城から守山城まで駆けつけ、城下に火を放ったといいます。

末森城と守山城4km程度の距離なので、知らせが来るのも実際に行くのもすぐとはいえ、異母弟ならここまで怒らなかったのではないでしょうか。

 

「伴も連れずに出歩くとは呆れた奴だ」

同じタイミングで、信長にも知らせが行っていたようです。

信長も清州城から直ちに現場へ駆けつけましたが、秀孝がたった一人で出歩いていたことを知ると、

「我が弟ながら、伴も連れずに出歩くとは呆れた奴だ。そんな自分の立場をわきまえてないような者は、例え助かっていても許さん」

と述べ、その場は何もせず帰ったとか。

邪推かもしれませんが、これは秀孝だけでなく、信行の行動も含んでの発言かもしれませんね。
細かい時系列がわからないので、信行が一人で守山城まで行っていたことを信長が知っていたかどうかにもよりますが……。

牛一はこの後、信長と家臣の馬について評価を述べています。

信長の馬は朝晩・毎日訓練を受けていたので、このような緊急事態でも、清洲から全力で往復することができました。

しかし、他の家臣の馬は日頃、厩(うまや)に繋ぎっぱなしなので、すぐにバテてしまい、信長に追いつけなかった、というのです。

牛一は「そのせいで乗り手は迷惑した」と書いているのですけれども、それは日頃ちゃんと乗ってない持ち主の責任なんじゃないですかね……(´・ω・`)

弟・秀孝が亡くなってから半年もせずに、叔父・信光も「不慮の事故」で亡くなっているため、信長はこの年に身内の味方を二人も失ってしまいました。

それを受けてなのか。
とうとう信行も動き出します。歴史というのはフシギな流れで進んでいきますね。

次回はそのお話です。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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