世の中ベストを尽くしても、一人の力じゃどうにもならないことがある。
本日はその一つ、19世紀の可哀想な人のお話です。
1807年(文化四年)3月13日は、ロシア帝国の外交官だったニコライ・レザノフが亡くなった日です。
同じくロシアはプチャーチンの先輩ともいえる人ながら、その成果や人生は対象的なもの。
プチャーチンが何度も困難に見まわれながら成功したのに対し、レザノフは「頑張ったのに(`;ω;´)」ということが多いのです。
一体どんな人生をだったのか、見ていきましょう。
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14才で5カ国語できれば外交官しかなかんべな
レザノフは、1764年にサンクトペテルブルクで生まれました。
幼い頃から頭が良かったらしく、14歳のときには5つもの言語を話せるようになっていたそうです。
そりゃ外交官以外に進むべき道がないですわな。
しかし、若いうちはいろいろと紆余曲折をしていました。
軍隊に入ったり、地方裁判所の判事になったり、どういう基準で仕事を選んでいたのか理解に苦しむ所があります。
腰を落ち着けたのは、毛皮商人グリゴリー・シェリホフと知り合ってからのことです。
彼の娘・アンナと結婚して毛皮商の仕事を引き継ぎ、35歳のとき露米会社というややこしい名前の会社を作っています。
この名前は、当時アラスカやアリューシャン諸島などがロシア領だったことからきています。
ロシア政府からは「商売のついでに統治もよろしく」(超訳)と言われ、他の商人や会社を追い出して、露米会社は莫大な収益を上げました。
ロシアの冬には大量の毛皮が必要ですから、それを独占すれば儲かるのも当然の話です。
が、食料の不足などにより、儲けと同等の大損もしてしまいました。
何がどうしてそうなった。
大黒屋に続き、日本の漂着民を届けて交渉へ
レザノフは経営方針の変更を検討し始めます。
そして「もうちょっと南のほうとも交易してみたらどうだろうか」と思い立ち、彼は日本との交易を始めるべく動き出すのです。
以前、日本からの漂着民・大黒屋光太夫をロシア人が送り届けた際、「これから国交を結ぼうぜ!」(超訳)という約束が取り交わされていたので、それを利用しようとしたのですね。
ついでに、ロシア領内にいた別の日本人漂着民も送り届けています。
さらには皇帝の親書を持ってはるばるやってきたレザノフを、江戸幕府は歓迎しませんでした。
上記の国交に関する約束を担当していたのは松平定信だったのですが、レザノフがやってきた頃には既に老中ではなくなっており、幕閣としても対応に困ってしまったのです。
幕府がgdgdしている間、レザノフ一行は長崎で半年間も待たされることになりました。
しかも、やっと結論が出たと思ったら「ウチはよその国と付き合わないことになってるんで^^」(※イメージです)というそっけないもの。
ブチ切れてもおかしくない顛末です。
上記の通りレザノフは商売の損を取り返すために日本へやってきていたので、手荒なこともできずに去っています。
江戸幕府がダメならアメリカ大陸があるさ
長崎からカムチャツカへ向かったレザノフは、ここでロシア政府からの新たな命令を受け取ります。
「カムチャツカのほうでキミの会社と現地住民がドンパチやってるから、何とかしといてね☆」(超訳)という無理ゲーな話でした。
一応、武官の経験もあるとはいえ、大して兵もいないところ。
しかも帰国したばかりの人間に命じることとは思えません。
さすがおそロシア、おれたちにできないことを平然とやってのけるッ! そこに痺れる憧れない!!
幸い、レザノフがカムチャツカに着いた頃には戦闘が落ち着いていたので、彼は規則に違反する社員の処刑などによって、どうにか事態を収集することができました。
そして春になってから、今度はアメリカ大陸との交易を試みます。
切り替えが早いのはいいことですね。
42才で15才の娘と恋仲に
この時代、まだアメリカの西海岸や中米あたりはスペインの植民地でした。
レザノフは、ヌエバ・エスパーニャと呼ばれるこの地域と交易を行い、安定した食料を得ようとします。
幸い、スペイン人はレザノフを歓迎してくれたのですが、
「すいません、ウチら外国と交易するなって言われてるんですよ(´・ω・`)」(超訳)
と、ここでも交易は断られてしまいました。
失意のままレザノフはアメリカを去りました……。
といいたいところですが、カリフォルニア総督の娘・コンセプシオンと恋仲になり、婚約しているのでそうでもなかったようです。
ちなみに当時レザノフ42歳で、コンセプシオンは15歳。
現代だったら金銭的やりとりを疑われるレベル。
とはいえ仕事のために来たので、レザノフはカリフォルニアで新婚生活を楽しむことはできませんでした。
時代に命を縮められたのかも
カムチャツカに戻ったレザノフ。
今度は部下が暴走して松前藩の拠点にカチコミをかけるなど、苦労が続きます。
レザノフはレザノフで「長崎で穏便に交渉しようとしたけど無理でした。武力で開国させないと無理っぽいです」(超訳)という手紙をロシア政府に送っているので、この上司にしてこの部下ありですかね。
部下に命じて襲わせた節もありますしね。
まぁ、江戸幕府が半年も待たせた上に門前払いをしたのが悪い気もします。
こんな状況ですからスペインのほうがまだ話ができると思ったのか。
レザノフは「ヌエバ・エスパーニャと交易できるよう、本国のスペインと通商条約を締結してはいかがでしょうか」と皇帝に進言しようとしました。
そしてカムチャツカから陸路でペテルブルクへ向かいます。
しかし、毛皮商となってから十数年も長距離航海やシベリア横断をやっていたレザノフは、すっかり体が弱っており、ロシア領の中間点にあたるクラスノヤルスクという町で斃れてしまいます。
1807年3月。このとき満42才。
当時としてもいささか早い死でした。
時代に命を縮められた人
現在でも、サンクトペテルブルクからカリフォルニアまでは飛行機で17時間以上かかるほど遠いところです。
この広範囲をあっちこっち移動しながら、国交樹立という難行を成功させるためには、かなりの苦労だったでしょう。
その後、江戸幕府とロシアの関係が緊張するわ。
アラスカは引き続き食糧不足で苦しむわ。
妻のコンセプシオンはレザノフが亡くなったことを知らずに、彼を待ち続けながら尼僧になってしまうわ。
何もかも良い方向には進みませんでした。
もし、江戸幕府かヌエバ・エスパーニャが「商売だけならいいですよ」というような回答をしていたら、レザノフはもうちょっと長生きできたかもしれませんねえ。
そういう意味では「時代に命を縮められた人」ともいえそうです。
長月 七紀・記
【参考】
ニコライ・レザノフ/Wikipedia