「愛国心」というと日本では過激な思想と結びつけて考えられることもありますが、生まれ育った土地を好きになることは別におかしくもなんともないですよね。
国を愛することと、他者を排斥することは違いますし、苦しい状況では心の支えになることもあるでしょう。
本日は自らの才能と愛国心をうまくミックスして開花した、とある芸術家のお話です。
1939年(昭和十三年)7月14日は、画家のアルフォンス・ミュシャが亡くなった日です。
日本でもファンが多い画家の一人ですよね。数年前には缶コーヒーのパッケージにも使われましたし、ご記憶の方も多いでしょうか。
しかし、ミュシャ本人が生きていた時代は、あの作風からは想像もつかない、厳しい情勢でした。
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23歳でパトロンが見つかりミュンヘン美術院へ
ミュシャは、現在のチェコ共和国南東部の町・イヴァンチツェで1860年に生まれました。
中学生くらいの時には既に絵の才能が目覚めていたようで、教会の聖歌隊で歌集の表紙を描いたこともあったそうです。
とはいえ家の経済状況は苦しかったようで、中学校を中退し、裁判所や工房で働いています。その間も夜間学校でデッサンを習っていたといいますから、貧しい中でも将来の夢を捨てずにいたのでしょうね。
その努力が神様のお眼鏡に適ったのか、23歳のときに貴族がパトロンになってくれて、そのツテでミュンヘン美術院へ入ることができました。
ミュンヘン美術院を卒業した後には、さらにパリの美術学校に通っていますから、貴族から援助の継続に値する才能を持っている、と評価されていたのでしょうね。
その後、しばらくしてサラ・ベルナールという当時の売れっ子女優のご指名で、ポスターを描く仕事を受けるように。
35歳のときには「ジスモンダ」という作品のサラを描いたポスターが非常に高い評価を受けて、一気にパリ市民へ知名度を広げます。
その後も「椿姫」「トスカ」などで主演を務めるサラを描き続けました。これだけ頻繁に仕事の付き合いをしていると、プライベートの付き合いもありそうなものですが……そういった話はないようです。
サラとミュシャは約6年の間コラボレーションをし、双方の名声を高めました。
その後、タバコの巻紙や自転車、モエ・エ・シャンドン社のシャンパンなどのポスターを手がけています。
これらは、ミュシャの得意とした女性と装飾の組み合わせで描かれていますが、彼は写実的な絵も多く描いています。
童話「白い象の伝説」の挿絵などの精緻な画風がそれです。
小さいものでも4.8m×4.05mのサイズを20枚
かくしてパリで数々の成功を収めたミュシャは、50歳のとき母国チェコへ戻ります。
当時のチェコは、オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり、ドイツ系やハンガリー系住民も多かったのですが、その次に多数派だったのはスラブ系の住民でした。
ものすごく単純にいうと「よそ者が地元民を支配している」という状況だったわけです。
こうなると暴動の予感がしますが、多くの市民は荒事はせず、ひっそりと愛国心を育てていました。
「ヴルタヴァ(モルダウ)」を書いた作曲家、ベドルジハ・スメタナなどが有名ですね。
そんなわけで、ミュシャも自らの民族に伝わる神話と歴史を描くことにしました。
これが「スラブ賛歌」という大作集です。「ヴルタヴァ」を含むスメタナの連作交響詩「わが祖国」を聞いて構想を得たのだとか。
小さいものでも4.8m×4.05mの大きさで、全20枚にもなります。
完成まで20年かかったといいますが、一枚あたりのサイズを知ると、むしろ早く感じますね。
ナチスに迫害され78歳の生涯を終える
1918年に二重帝国が崩壊してチェコスロバキア共和国になると、さらにミュシャの才能は世間から必要とされていきます。
紙幣や切手・国章といった、国を象徴するもののデザイナーとしてミュシャが選ばれたのです。
しかも、成立したばかりの国に余裕がないことを慮って、無償で請け負ったのだとか。これぞ愛国心、といったところでしょうか。
この時期の彼の作品で、現在も見られるものとしては、プラハ城内にある聖ヴィート大聖堂のステンドグラスが挙げられます。
彼の才能の豊かさがうかがえますね。
しかし、ドイツと国境を接するということは、ドイツの動きに大きく影響されるということであり、この時代にそれが何を意味するか……何となくわかりますよね。
例のチョビ髭党がドイツを支配し、周辺国にイチャモンをつけ始めると、チェコスロバキア共和国も無事ではすみませんでした。国が解体され、「愛国心を助長するようなものはケシカラン!!」として、ミュシャも目をつけられてしまいます。
既に78歳になっていたミュシャは容赦なく尋問され、そのせいで体が弱まり、その年の夏に亡くなってしまったのでした……。
「カメラのドイ」の創業者が世界有数のコレクター
第二次世界大戦が終わった後もソ連や共産党の影響が強く、やはり「愛国心を(ry」という見方が強いままだったので、しばらくの間ミュシャのことを公の場で口にするのは、はばかられるような状況だったようです。
ようやくミュシャの再評価がされ始めたのは1960年代後半から。現在では世界的に人気のある画家となりました。
彼の作品を気に入り、コレクションをはじめた日本人もおります。「カメラのドイ」の創業者である土居君雄氏です。
買い付けや商談でヨーロッパに行くたびに買い集めているうち、いつしかミュシャの息子・ジリとも知り合い、相当数の作品が手に入ったんだとか。
1989年には土井氏にチェコ文化交流最高勲章が与えられているほどです。どんだけー。
その翌年土井氏が亡くなった際、コレクションは大阪府堺市に寄付され、現在は堺アルフォンス・ミュシャ館(→link)で鑑賞することができます。
長月 七紀・記
【参考】
アルフォンス・ミュシャ/wikipedia