ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ/wikipediaより引用

音楽家

作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチ 曲調と異なる優しげな素顔

「名は体を表す」ならば、芸術家の場合は「作品が本人を表す」ともいえるでしょうか。

たとえば重い曲調を得意とした音楽家は、肖像画でもいかめしく描かれていたりしますよね。バッハとか。

もちろん、どんな人間にも喜怒哀楽があり、一つの作品だけで本人のすべてを知ることはほぼ不可能でしょう。

今回はその辺を念頭に置いて、とある作曲家の素顔を夢想してみたいと思います。

1906年(明治三十九年)9月25日は、作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチが誕生した日です。

日本で最も知られているのはこちらの交響曲第5番・第4楽章でしょうか。

 

いやぁ、勇ましい曲調ですよね。

このような音楽を聞きますと「作者もさぞかし厳格な人なんだろう」という感じがしますが、彼はむしろ柔軟性と優しさを兼ね備えたような人物な気がします。

ドミートリイはどんな人だったのか?

それを想像しつつ、彼のおじいさんの代から振り返ってみましょう。

 

祖父が銀行家として成功し、両親は大学で出会う

ドミートリイの祖父は1866年にシベリアへ流刑になり、釈放された後も現地で生活。

イルクーツクで銀行家として成功し、財産を築きました。

ドミートリイの父で同名のドミートリイ(ややこしい)も、そのおかげでペテルブルク大学に進学することができます。

専攻は物理数学だったそうですが、音楽にも興味を持ち、妻となるソフィヤと出会います。

もちろん、彼女がドミートリイ(息子)の母親となる女性です。

ソフィヤも裕福な家の出身でした。

三女だったので、両親も結婚相手にとやかくいわなかったのでしょうか。

普通は「親が流刑になっていたような相手との結婚なんて許さん!」となりそうなものです。

ドミートリイ(父)とソフィヤは、音楽をきっかけとして出会った……といわれています。

そういう環境で生まれ育ったドミートリイ(息子)が音楽に親しむようになるのもごく自然な流れだったでしょう。

 

音楽を始めたのは8才と遅めだった

ドミートリイが実際に音楽に触れるようになったのは8歳の時からでした。

作曲家の中には、文字を読むより先に音楽を始めた人も多いですから、ドミートリイはやや遅めです。

きっかけは、姉と友人が弾いていたピアノ曲に興味を持ち、母ソフィヤに手ほどきを受けるようになったことだったとか。

そしてソフィヤがドミートリイの記憶力と絶対音感に気付き、音楽の先生をつけるようになります。

作曲を始めたのは9歳からでした。

しかし、ドミートリイは元々読書家でもあったため学問の道という選択肢もあり、しばらくは進路に迷ったようです。

結果、12歳のときに音楽家の道を選ぶのでした。

ソフィヤも息子の目標に協力するため、良い先生を探すことに余念がありません。

教育方法・感性が合わないと感じたらすぐに先生を変え、息子が気兼ねなく音楽へ取り組めるように協力していたそうです。

また、あくまで息子の意思を尊重し、練習や学習を強制しませんでした。

これがドミートリイにとって良かったようです。

 

ロシア革命で共産党が台頭 自由な創作活動は制限され

13歳になったドミートリイは、ペテルブルク音楽院へ入学、作曲とピアノを専攻しました。

1925年の卒業作品として提出した「交響曲第一番」で世間の注目を集め、若いうちから多くの曲を作っていきます。

この間、国内ではロシア革命が起こり、共産党が台頭。

彼らは芸術にも口を出すようになっていきます。

ドミートリイの作品もたびたび「社会主義的にうんぬんかんぬん」と批評されました。

そして彼を含めた多くのロシア人作曲家が、当局の気に入るような曲を作らされることになります。

この惨状から逃れるべく、ラフマニノフのように革命から間もなく亡命した人もいました。

ドミートリイは共産党の好みに合うような曲も作りました。

が、心の中では密かに反抗心も持っていたようです。

冒頭に挙げた代表作・交響曲第5番は1937年の作品で、まさしく共産党を意識した曲ながら、その裏では党と関係のない曲も作っています。

もっともその発表は1953年にスターリンが亡くなってからでしたが。

ある意味上手いというかなんというか。

 

ロッシーニやワーグナーに影響され作曲活動に挑戦

戦争が終わった直後の1946年。

「父は近所にいたドイツ兵捕虜に対して同情していた」とドミートリイの子供たちが回想しています。

この辺を考え合わせると、彼は本心を隠すのが上手かったのでしょうね。少なくとも当局には。

1950年代後半からは、自作品の引用なども大胆に取り入れていきました。

社会的事件の風刺など、危ない題材も使っています。

共産党からは当然いい顔をされませんでしたが、既にスターリンがいないので命の危険にまではなりませんでした。

1958年には、かつて患った脊椎性小児麻痺の後遺症により、自らピアノ演奏をすることは難しい状態になったものの、作曲意欲は最後まで失いません。

ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲(運動会や競馬でお馴染みのアレ)や、ワーグナーの「ワルキューレ」、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番「月光」など、他の作曲家の作品から大胆な引用を行い、自作の糧としています。

年をとると挑戦することができなくなりがちですが、ドミートリイはそうではなかったのです。

 

死の直前に完成した「ヴィオラ・ソナタ」

こうした活動は、この世を去る直前まで続きました。

ドミートリイは1975年8月に亡くなったのですが、その二ヶ月ほど前に最後の作品「ヴィオラ・ソナタ」を完成させています。

初演を務めるヴィオラ奏者フョードル・ドルジーニンは既に練習を始めていたものの、作者自身がその成果を確認することはできなかったのです。

しかも、この頃のドミートリイは7月から肺がんで入院しており、一時退院しています。

おそらくは最後の力を振り絞って、この曲の初演に向けた調整を行っていたのでしょう。

残念ながら、それは叶いませんでしたが……奏者にはその気持ちが伝わっていたようです。

実際、この曲の初演は、同年10月に行われました。

出来は素晴らしいもので、当時「東側諸国における最高の指揮者」と呼ばれていたエフゲニー・ムラヴィンスキーが、観客席で感涙にむせんでいたといいます。

ドルジーニンも無事演奏を終えた後、天国のドミートリイに聴衆の喝采を伝えるため、楽譜を高く掲げたとか。

もしもドミートリイが音楽の才しか誇れないような人だったら、死後も尊敬され続けることはなかったでしょう。

才能や作品名と同じくらい、ヤバい性格や言動が伝わっている作曲家もいますしね。

きっとドルジーニンの演奏と観客の反応は、天国のドミートリイにも伝わったことでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ/Wikipedia

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