「ハリネズミのジレンマ」というお伽話をご存じでしょうか。
「オスとメスのハリネズミが仲良くなったものの、くっつくとお互いの針が刺さって痛い。そうして何度も怪我をして、やっと二匹は針が刺さらない距離を掴むことができました。めでたしめでたし」(意訳)というもので、著者はドイツの哲学者・ショーペンハウエルです。
つまり「何でもさらけ出すのがいい」とか「親しければぴったりくっつくのが当たり前」ではなく、「お互いにとってちょうど良い距離があるもんだよ」という話ですね。
個人同士でも「近づき過ぎるとうまくいかない」のであれば、その集合体である国家でも似たようなことがいえるわけで……今回はそんな感じのお話に注目。
1879年4月5日は、チリが、ペルーとボリビアに宣戦布告し、「太平洋戦争」が始まった日です。
第二次大戦中の日米戦争と同じ名前になっていてややこしい事この上ないですが、そもそもこっちが先。
当時、日本では対米戦争のことを別の名前で読んでいたところ、戦後、GHQから「太平洋戦争と呼べ!!」というお触れが出たんですね。
まあ、確かに日米戦争も太平洋での戦いですから、間違ってはいないんですけれども。
何となく恣意的なものも感じるような……。
前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入りましょう。
マチュピチュとチェ・ゲバラとコピアポ鉱山
舞台は南米大陸の西側です。
北から見た場合は、ペルー・ボリビア・チリの順。
構図としては
ペルー&ボリビア
vs
チリ
となります。
それぞれ国の特徴を有名な話題で並べてみると、こんな感じです。
◆ナスカの地上絵やマチュ・ピチュで有名なペルー
◆ウユニ塩湖とチェ・ゲバラがボリビア
◆33人が地中に取り残されながら、全員救出されたコピアポ鉱山落盤事故がチリ
この戦争に関わるチリ・ペルー・ボリビアの三ヶ国は、だいたい同時期にヨーロッパの植民地から独立国になっています。
1818年にチリ、1822年にペルー、1825年にボリビアの順です。
アントニオ・ホセ・デ・スクレやシモン・ボリバルといった優秀な指導者を得たことも大きかったでしょうけれども、この地域の人々自身が頑張ったからこそですよね。
しかし、それは同時にこんな問題を生み出しました。
「どの国が南米大陸西部で主導権を握るか!」
そんな雰囲気ができてしまい、様々な面でトラブルを生み出すのです。
「チリだけいい感じになってんじゃねーよ」
例えばボリビアの大統領がペルーを征服してポシャったり。
スペインが再びこの地域を植民地化しようとしてきたり。
ボリビアの別の大統領がアホすぎてせいで経済が混乱するなど。
あっちこっちでトラブルが勃発。
特にボリビアについては深刻で、紙幣をむやみに刷ったためにインフレが起きてしまい、それを補うために硝石(火薬などの材料になる鉱石)の鉱山をチリに売るなど、どんどん泥沼化していきます。
多重債務者の悲劇を見ているようで心苦しくなる。
さらには、アホな大統領に反対する人々が虐殺されてしまったため、国内の政情が安定するまでかなりの時間を要します。
こんな感じでペルーとボリビアでは混乱が続く一方、チリだけはマシな状態でした。
チリでは、先住民との戦争に勝って硝石や鉄の鉱山を開発し、イギリス資本でできたチリ企業が少しずつ近代化・経済の発展を進めていました。
地理的にこれほど近いところで、貧富の差が出来てきたら、ペルーやボリビアが「なんだよ、チリだけいい感じになりやがって」と思うのは仕方ない話かもしれません。
そこで、この二ヶ国は密かに同盟を組み、チリ企業に対して関税をかけました。
チリからすれば「今まで普通に商売してきたのに、いきなり何なんだよ!」と思いますよね。
当然、抗議しましたが、これこそ同盟側の思うツボでした。
企業を接収されたチリがブチ切れ!
ボリビアはチリから硝石輸入を禁止し、チリの企業を接収します。
平たく言えば人質です。
これまた当たり前ながら、自国民を保護するため、チリはボリビア南部の港町・アントファガスタへ兵を出し、占領しました。
ここはボリビアとチリの輸出入を担う町だったので、どちらにとっても要所だったのです。
チリがここまですると思っていなかったのか。
ボリビアは慌ててペルーに援軍を要請します。
しかし、このタイミングでそんなことをすれば「俺たちグルです」といっているようなもの。同盟を組んでいなければ、援軍なんて頼めないですからね。
そしてチリは「ブルータスよお前もか」とばかりに、ペルーとボリビア両方に宣戦布告をしたのです。
この戦いが「太平洋戦争」と呼ばれたのは、主な戦闘が海戦だったことによります。
なぜ陸続きの国同士なのに海での戦いになったのか?
理由は以下の二つです。
一つは、チリがイギリスとの付き合いの延長線上、海軍の整備を進めていたことです。
地図を見れば明らかなように、チリは南北に細長い国ですから、海に関することを整えておかないと何もできません。
もう一つは、ボリビアやペルーが陸軍に力を入れていたことです。
特にボリビアは海に面していた部分が少なかったので、ほとんど海軍に手を入れていない状態でした。
当時の国土は海に面しているところもあったのですが。
2対1でシメるつもりが逆にボコられ
マトメるとこんな感じです。
陸→「ボリビア・ペルー、海ではチリに分があった」
海→「チリは、ほぼペルーだけを相手にすればいい状態だった」
となれば、宣戦布告をしたチリが、自分たちの有利になる海戦を選ぶのはごくごく自然な話。
早々に制海権(自由に航行できる海域を確保すること)を取り、ペルーはゲリラ戦しかできなくなりました。
すると陸でもチリ軍は優勢になり、ペルー南部の都市を幾つか占領した後、開戦から2年足らずで首都リマへ侵攻。
ペルー政府は往生際の悪い事に、山へ逃げて抵抗を続けましたが、新しい大統領が降伏を選んだことで、単独講和を選びます。
結果、ペルー側の死傷者は3万5000人ほど出て、南部のトラパチャ地方をチリに割譲するという手痛い代償を負いました。
それから半年ほど後にボリビアも「リトラル県(アントファガスタなどがある沿岸部)などをチリに割譲する」という条件で休戦条約を結び、ここにもう一つの太平洋戦争は終結となります。
ペルーやボリビアからすれば
「2対1でチリをシメてやるつもりが、逆に何もかもぶん取られていた。な、何を言っているのか(ry」
という感じだったでしょう。
ちなみに、ボリビアとチリが条約を結んだのは1884年4月4日なので、ぴったり5年間戦争をしていたことになります。
この日付が取り沙汰されたり、テストに出ることはないかと思いますが、
【ぴったり5年間で終わった戦争がある】
という点だけ覚えておくと、話の種になるかもしれませんね。
さらに余談ですが、上記のコピアポ鉱山落盤事故の際、一人だけボリビアの人がいたそうです。
そのため、今なお普段は険悪な両国ながら、ボリビア大統領が現場に駆けつけたとか。
まだ完全な友好関係にはなっていないようですが、そのきっかけのひとつになったらいいですね。
長月 七紀・記
【参考】
太平洋戦争 (1879年-1884年)/wikipedia