ヴォルテール

ヴォルテール/wikipediaより引用

作家

そもそも名前が意地っ張りヴォルテールの「ペンは災いの元」な生き方

「口は災いの元」といいますが、声に出して発せずとも言葉が多大な影響をおよぼすことは多々あります。

本日は口ならぬ「ペンは災いの元」といえそうな、とある学者さんに注目。

1694年11月21日は、啓蒙思想家・作家のヴォルテールが誕生した日です。

本名は「フランソワ=マリー・アルエ」という実に可愛らしい感じながら、彼がヴォルテールと呼ばれているのは、深そうで深くないちょっとした事情がありました。

話が前後するとややこしいので、順を追って彼の生涯を追いかけていきましょう。

 

フランス王家をディスりまくって監獄へ

主に啓蒙思想家として有名なヴォルテールは、当初、詩人になろうとしていました。

若いころはフランス王家(ブルボン家)や国政をディスりまくった詩を書いて、バスティーユ監獄へ1年弱ほど入れられていたこともあります。

彼の晩年にあたる時期に、日本では幕府をおちょくった狂歌が詠まれているのを考えると、お国柄が出ている気がしますね。

自由の身になってからは、劇の台本を書いて少しずつ作家へと転身していきます。

といっても、また貴族と一悶着起こしてバスティーユに入ってしまっているんですけどね。

この間10年も経っていないので、さぞかし看守も苦笑いされたことでしょう。

しかし、このときは相手の貴族のほうがいろいろアレな感じだったこともあり、世論がヴォルテールに味方してくれたおかげですぐに釈放。

再び自由の身になった彼は、海を超えてイギリスに向かいます。

目的は不明ながら、この渡英でヴォルテールは英仏両国の違いを実感しました。

 

近代国家へ邁進する英国をホメて逮捕状

当時のイギリスはガンガン植民地を広げ、イケイケドンドン(死語)だった頃。

それでいて立憲君主制が成立しており、確実に近代国家へ進んでいました。

まだ絶対王政を是とするフランスから来たヴォルテールには、大きな衝撃だったことでしょう。

ジョン・ロック(社会契約説&立憲君主制賛成の人)やニュートンといった当時の最先端の学問にも触れ、多大に影響を受けていきます。

そして『哲学書簡』という本を書くのですが、「イギリスの制度スゲーよ。フランスも見習うべきじゃね?」(超訳)という内容だったため、フランス人を怒らせて逮捕状が出されてしまいました。

気持ちはわからんでもないですが怒りすぎやろ(´・ω・`)

ヴォルテールはオランダやフランス郊外・ロレーヌ地方などを転々とした後、逮捕状が取り下げられるのを待ちました。革命が起きてからじゃなくてよかったですね。

その後、文学・哲学・史学など幅広い分野で著作を発表するたびに名声を高め、プロイセンのフリードリヒ2世の元を訪れたり、ロシア最強の女帝・エカチェリーナ2世と文通したり、各国の王侯との繋がりもできていきました。

ほぼ同時期に、同じく啓蒙思想家のジャン=ジャック・ルソーと手紙で大ゲンカしたりもしていますが、たぶん王様や皇帝に対してはやっていないでしょう……たぶん。

 

そもそも名前が「意地っ張り」

ヴォルテールはその先進性ゆえにカトリック教会とも対立、死後は教会から埋葬を拒否されるほどだったともいいます。

そもそも、「ヴォルテール」という名前も、「意地っぱり」という意味の「ヴォロンテール」をもじったものといわれているので、世間的にどう言われようと、相手が教会であろうと、自分の学説を曲げるつもりなんてこれっぽっちもなかったのでしょう。

意外?にも、ヴォルテールはフランス革命の前に亡くなっています。

一時はスイスとの国境付近に埋葬されていたそうですが、革命の最中にパンテオンという霊廟に改めて葬られました。

「パンテオン」というのはギリシア語で神々や全ての神々を祀る神殿のことなのですが、キリスト教圏ではそれだとマズいので、「偉人を祀る墓所」という意味合いになりました。

固有名詞ではないので、ローマにも同名の建物があります。

パリのパンテオンは当初教会として建てられ、革命中にフランスの偉人を祀る聖堂として性格を変えていたので、問題がなかったと思われます。

他にも、キュリー夫妻やルソー、ユーゴー、大デュマなど、近代フランスの偉人と呼べる人々がここに眠っている場所です。

こういったメンツと共に眠っているとすると、見えないどこかで、ヴォルテールは今も文学や政治談義を繰り広げていそうですね。

もっとも、彼は亡くなったとき83歳でしたから、多少は性格も丸くなっていたかもしれませんが。

長月 七紀・記

【参考】
ヴォルテール/Wikipedia

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