人間一つや二つくらいは、得意なことがありますよね。
生計を立てられる程に長じることはそう多くありませんが、もしそうだったとして、ある日、突然それが絶たれてしまったら……誰しも暗い気分になることでしょう。
しかし、それを跳ね返すことで歴史に名を残した人は珍しくありません。むしろ、跳ね返せたからこそ名を残したといっても過言ではないでしょう。
本日はその中から、とある美しいものに名づけられた人をご紹介します。
1585年12月27日は、フランスの詩人ピエール・ド・ロンサールが亡くなった日です。
もしかすると、バラの名を検索してこの記事にたどり着いた方もいらっしゃるかもしれませんね(※同名のバラの花がある)。
残念ですが、今回はその元ネタになった人のお話です。
病により若くして難聴に……外交官を諦める
ロンサールは1524年にフランスの貴族の家に生まれました。
小さい頃は家庭で教育を受けていたそうですが、ツテをたどって、後のフランス国王フランソワ3世とその弟・妹に仕えるようになります。
王妹のマドレーヌ王女がスコットランドに嫁いだ際には、それに付き添い、3年間スコットランドで過ごしました。
その他にはフランドル(だいたい現在のベルギー)にも行ったことがあり、外交官として期待されていたようです。
が、若くして病で難聴にかかってしまい、外交官として働くことが難しくなってしまいました。
難聴になった有名人というとベートーベンですが、彼ほどでなくても、後天的な難聴や障害に遭えば悲観的になりますよね。
しかし、ロンサールはそこで立ち止まることはありませんでした。
「耳が聴こえないなら、書物を読んだり書いたりすればいいじゃないか!」と言わんばかりに、勉学や詩作に生涯を捧げていくことになるのです。
国王臨席の場で詩を朗読され拍手喝采
7年という時間をかけてギリシアやラテン文学を学び、26歳のときに処女詩集を刊行。
その後は不定期に詩集を出版し、少しずつ世の中にも認められていきます。
特に、フランソワ3世の妹・マルグリットが国王臨席の場でロンサールの詩を朗読したときは、文字通り拍手喝采が起きたといいます。
以降、ロンサールはいよいよ精力的に詩作を続けていきました。
各国の王侯たちから依頼を受けることも増え始め、同時に体調は悪化の一途をたどります。
宮廷から離れて療養しながら活動を続け、残念ながら病気が良くなることはありませんでした。
親しかった友人たちも次々に世を去り、寂しく過ごしていたようです。
すでにフランス国外まで彼の名は知られ、エリザベス1世など他国の王から見舞いの品も届きましたが、それが慰めになったかどうか……。
バラの「ピエール・ド・ロンサール」は、もしかすると彼の魂を慰めるために名づけられたのかもしれません。
いかにも甘い風貌なれど、香りはさほど強くない
彼の詩にはたびたびバラが出てきます。
むしろバラを形容詞代わりに使っていない詩人のほうが珍しいですかね。
このバラは、上記の画像の通り全体的には薄いピンク色で、花びらの外側に向かって少しずつ色が濃くなるという特徴を持っています。
花の形は咲き始めの丸みを帯びた感じから、少しずつ広がってゆく、いかにも甘い感じの風貌ですが、実は香りは強くないそうで。
まるで、ロンサールの人生そのもの……というのは、穿ち過ぎでしょうか。
ちなみに、花「の」名前は女性につけられることが多いですが、花「に」名前を付ける場合は、男性が元ネタになっていることもちょくちょくあるようです。
有名所でいうと、「シャルル・ド・ゴール」(紫)や「クリスチャン・ディオール」(赤)、「モーリス・ユトリロ」(赤に黄・白の斑)などなど。
とはいえ、やはり圧倒的に多いのは女性名ですが。これは特定の女性に捧げることがあるから、という理由もあります。
皇后陛下に捧げられた「エンプレス・ミチコ」(ピンク)や皇太子妃時代に同じく捧げられた「プリンセス・ミチコ」(朱赤)などでしょうか。
他国の王室の女性の名がついているものもたくさんあります。
歴史好きが「お?」と思うのは「インカ」という黄色いバラかもしれません。スペルが違うので例の地上絵等は関係ないと思われますが、ちょっとドッキリしますよね。
個人的にはどっちも好きです。
「ピエール・ド・ロンサール」は人気が高い品種なので、お近くのバラ園でも見られるかもしれません。
ちょっとしたネタとして、元になった詩人の話を振ってみてはいかがでしょうか。
……盛り上がらなさそう? サーセン(´・ω・`)
長月 七紀・記
【参考】
ピエール・ド・ロンサール/Wikipediaより引用