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やっぱり天才!? 織田信長の生涯とは

その日、歴史が動いた 音楽家

アメリカ音楽の父ジョージ・ガーシュウィン クラシックを知らない偉大な作曲家は38歳で散った

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長生きを良しとするか。「太く短く」を望むか。
人生の過ごし方は人それぞれの好みでありましょう。

しかし、はたから見ていると「この人には、もっと長生きしてほしかったな……」と思うこともままありますよね。後世に何かを残しているならなおのことです。
本日はそんな話の中から、日本での人気も高そうな、とある芸術家のお話です。

1898年(明治三十一年)9月26日は、音楽家のジョージ・ガーシュウィンが誕生した日です。

ジャズからクラシックまで幅広く手がけていますし、音楽の授業はもちろん、多くの方が一度は彼の曲を耳にしているのではないでしょうか。
本日はその中のほんの一部をご紹介しながら、生涯をたどっていきましょう。

【TOP画像】ジョージ・ガーシュウィン/wikipediaより引用

 

ドヴォルザークに感化され音楽を始める

ジョージは、移民としてニューヨークにやってきた、ユダヤ系ロシア人の家に生まれました。

音楽に興味を持ったのは小学生のとき。ドヴォルザークの「ユーモレスク」に触れたことがきっかけだったといわれています。
残念ながら、ドヴォルザークはちょうどその頃亡くなってしまっているので、直接教えを請うことはできませんでした。でも、こういうちょっとした接点って胸アツですよね。

音楽の授業でもお馴染みのドヴォルザークさん/wikipediaより引用

音楽の授業でもお馴染みのドヴォルザークさん/wikipediaより引用

ジョージの父親は教育熱心な人だったようで、あまり余裕はないながらに、ピアノを買ってくれました。当初はジョージの兄・アイラに音楽を学ばせるためだったそうですが、アイラは文学のほうを好んでいたので、音楽にあまり関心を示しませんでした。
代わりにというわけでもなかったでしょうが、やがてジョージのほうがピアノを弾くようになると、父親も「それはそれで良し」と考え、ピアノや楽典を習わせてくれています。理解あるトーチャン、カッコいい。

かくしてジョージは熱心に音楽を学び、21歳の時に発表した「スワニー」という歌曲がヒット。
当時の人気歌手アル・ジョルソンが気に入り、何度も歌ってくれたことで、一躍、音楽界での知名度が高まっていきます。

このジョージを追って、兄のアイラが作詞家に。
兄弟で「アイ・ガット・リズム」などのさまざまなポピュラー・ソングを生み出していきました。

この曲のジャズ版も人気がありますね。

 

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「私に学んで“二流のラヴェル”になる必要はないでしょう」

さて、そろそろ皆さんお気づきになられたでしょうか。
ジョージは「クラシックを学んでいない作曲家」なのです。
ヨーロッパと比べて西洋的な文化のスタートが遅かったアメリカだから、といえば当然でもありますが、ジョージはこれを少々気にしていました。

独学でクラシックについて学んだり、モーリス・ラヴェル(過去記事:名曲『ボレロ』の作曲家モーリス・ラヴェル 涙なしでは語れない悲痛な死に様とは )などに「クラシックのことを教えていただけませんか」と頼んだりしています。
ラヴェルからは「既にあなたは一流なのに、わざわざ私に学んで“二流のラヴェル”になる必要はないでしょう」と断られてしまっていますけれども。この断り方が実にオサレですね。

ラヴェルとガーシュウィン(右端)/wikipediaより引用

ラヴェルとガーシュウィン(右端)/wikipediaより引用

この頃、ラヴェルは自分の音楽が時代遅れになりつつあることを悟っていたと思われますので、「古い形式にこだわって、新しい才能を潰すべきではない」と考えたのかもしれません。

なんにせよラヴェルの発言はジョージを大いに勇気づけたことでしょう。
こうして、ジョージは26歳のときに「ラプソディ・イン・ブルー」というシンフォニック・ジャズの嚆矢となる曲を発表します。

この曲は、1984年のロサンゼルスオリンピックで、84台ものピアノを用いて演奏されたことがあります。

いかにもアメリカ、という感じの演出ですね。

 

「パリのアメリカ人」を発表し、ますます存在感を強めるも……

ジョージはさらに努力を重ね、四年後には「パリのアメリカ人」を発表し、ますます存在感を強めていきました。
この曲は音楽の授業でよく扱われますね。初めてタイトルを聞いたとき、「結局何人なんだよ」とツッコんだ方も多いのではないでしょうか。私もです。

また、当時(も)バリバリ差別されていた黒人の風俗を描いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」も手がけています。これは“キャストが全員黒人”という点でも画期的でした。
発表当初は大した話題にはならなかったようですが、後々人気を博し、現在ではアメリカ音楽の古典として不動の位置にあります。

しかし、ジョージはこの頃から精神的にも身体的にも弱り始めていました。
うつと思われる症状に加え、腹痛と便秘が頻発するようになっていたといいます。後者について、ジョージ本人は「作曲家の胃袋」などと茶化していましたが、1937年にはリハーサル中に指揮台の上でめまいを起こしています。
これは実はてんかんの発作の始まりだったようで、それから数ヶ月のうちに発作の頻度がだんだん増えていき、その年の夏に亡くなってしまいました。まだ38歳でした。

 

1週間に1曲というハイペースで600曲

ジョージが書いた曲は、12年間で600曲前後に上ります。

単純計算で1年に50曲ですから、ほぼ毎週1曲完成させていたことになりますよね。その他にリハーサルや演奏会、他の音楽家との付き合いなどもあるわけですから、極めて多忙だったことは想像に難くありません。
なんでどこの国もデキる人を使い潰すんや(´;ω;`)ブワッ

最近、いろいろな業界で多忙さや薄給などが騒がれていますが、良いものを作ったり、良い仕事を続けていただくためにも、心身の健康を念頭に置いていただきたいものです。
特に雇用者や発注側の方々には。

長月 七紀・記

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参考:ジョージ・ガーシュウィン/wikipedia パリのアメリカ人/wikipedia ラプソディ・イン・ブルー/wikipedia アイラ・ガーシュウィン/wikipedia

 

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