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その日、歴史が動いた

カール大帝もシャルルマーニュも同じ人 ヨーロッパの礎作った偉人生まれる【その日、歴史が動いた】

更新日:

日本人からすると、ヨーロッパの方の歴史に対する感覚というのはなかなか不思議なものがあります。

理由としては、地続きであるが故にお互い影響されやすく、もともと同じ国でも分かれたりすることが珍しくないということが一つ。

もう一つは、王様同士に血縁関係があることが多いため、相続問題や戦争の原因になりやすいということです。宗教とか文化的な習慣の違いからいざこざが起こるなんてこともありますが。

言語の類似点から、同じ人の名前でも読み方が変わってややこしくなるなんてのも日常茶飯事ですね。
今日の主役もその一人で、おそらく最も有名な人だと思われます。

実は同じ人 カール大帝=シャルルマーニュ

742年(日本では奈良時代・天平十四年)のあす4月2日、カール大帝が誕生しました。フランス語読みでは「シャルルマーニュ」になりますので、こちらで覚えているという方もいらっしゃるかもしれませんね。

ジャイアンっぽい横顔のカール大帝(Wikipediaより)

彼の出生地が現在でもドイツ・フランス国境の町アーヘンであること、両国の元になったフランク王国の王であったことから二つの呼び名が定着しているようです。
おそらくドイツ史の資料ではカール大帝、フランス史ではシャルルマーニュ表記になっているのではないでしょうか。
ちなみに英語だと「チャールズ・ザ・グレート」になるそうです。リングネームみたいですね。ヨーロッパって大陸ごとバトルロイヤルしてるみたいなもんですけど。
日本ではカール大帝表記のほうがメジャーなようですので、以下こちらで統一させていただきますね。

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ドイツとフランスの下地を作ったカールおじさん


さて、カール大帝はどんな人だったのか、何をやったのか見ていきましょう。
いつも通りものすごく大雑把に言うと「現在のドイツ・フランスの下地を作った人」ということになります。
そんなに偉大な人なので、「カール大帝はウチの人に決まってんだろ!ドイツの技術は世界一イィイィ!!」「シャルルマーニュだって言ってんだろ失礼なヤツだな!フランスじゃなきゃあんなスゴイ人は出てきませんー!!」というような偉人の取り合いみたいなことになっているわけです。流石にここまで子供染みた言い争いはしてないと思いますがイメージですイメージ。

ではフランク王国とは何ぞや?といいますと、ローマ帝国と微妙につながりがある国です。
時系列順でいうとこんな感じになります。

ローマ帝国ができる

ローマ帝国が東西に分裂

西ローマ帝国が滅亡

空いた土地にフランク王国ができる

以前「バナメイエビ帝国と名乗れ!神聖ローマ帝国が神聖でもローマでもない件について【その日、歴史が動いた】」でちょっとだけ出てきた”カールという人”がカール大帝のことです。

彼は主に戦争でフランク王国の領土を広げていきました。フランク国王になったのが768年、その後亡くなるまでの46年間で50回以上も戦争をしています。よく国のお財布がもったものですね。今ほど兵器が発達してませんから、かえって出費は少なかったんでしょうけども。

行った先は現在のイタリア・ドイツ・スペイン・オーストリアなどなど、まさに四方八方。
しかもその全ての方面で勝利を収め、一回りも二回りも領土を広げました。彼の時代、フランク王国の面積は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と同等になっていたそうですから、ここだけでも充分パネェ人であることがわかりますね。
しかもカール大帝は王宮にふんぞり返って部下を戦場に送るだけの王ではなく、自らあっちこっちへ移動していました。これはいかにも反乱を起こしそうな民族がそこかしこにいたためで、部下もきりきり舞いといった状態でしたが、この結果道路整備や交易保護、通貨の規定など経済の概念ができてきます。ただの脳筋ではないんですね。

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読み書きできなかったのに転戦しながら教養人に

また、内政面では後々「カロリング・ルネサンス」とも呼ばれる文化活動を奨励しました。
しかしこの時代のことですから、教育や芸術の概念がある人はほんの一握り。話によれば、カール大帝自身も文字の読み書きはできなかったそうです。それでも毎晩勉強を続けていたおかげで、ラテン語やギリシア語を理解できるようになり、歴史書を読み聞かせてもらったりと、決してアホの子ではありませんでした。
ですが、それだけに学問の難しさもわかっていたのか、庶民に広めようとはしなかったので「ルネサンスは言いすぎじゃない?w」と言われることもあるとか。
それまでの学問や芸術を後世に伝えようとしたことは評価されるべきであるとして、この呼び方は今も存在していますけども。

こういう文武両道の王様だったので、800年にはヴァチカンにも認められ「西ローマ帝国の後継者」として皇帝になったのでした。
もっとも、このときまで教皇が皇帝を任命するという概念がなかったので「あのー、東ローマの皇帝さんに認めてもらわないと(西ローマの皇帝を勝手に名乗ったことになっちゃうから)ダメなんじゃないんですか?」という気分だったようです。

これは東西のローマ皇帝がお互いを認め合うことにより、両方とも帝位につくことは正当なものであるという習慣があったためでした。ややこしいですが、「オレは東、お前は西で一番エライから同じ皇帝な!」というところでしょうか。

東ローマ帝国から認められなかったが

要するに当時の教皇・レオ3世の一人相撲という面が大きくなってしまったのです。そのため東ローマでは「皇帝(自称)www」と見る人も多くいました。カール大帝にとっては実に不名誉な話です。
そこで彼は「だったら、東ローマの女帝さんと結婚して認めてもらうもんね!」と考えましたが、これは失敗に終わります。
この女帝さんはエイレーネーという人だったのですが、帝位につくまでの経緯がいろいろとアレな上、政治も軍事もヘッタクソだったのでレオ3世に「あのアマ皇帝でもなんでもないから」と言われてしまっていたからでした。

もしこのときエイレーネーと結婚してたら、フランク王国もめっちゃくちゃになってたかもしれませんねえ。そしたらフランス・ドイツどころか、ヨーロッパ全体が全く違う歴史になっていたのでしょうか。

皇帝についた時点で、カール大帝は既に56歳。そろそろお迎えの気配を感じ取ったのか、806年には相続の準備を始めます。

フランク王国の大部分を占めていたフランク人(民族)には、「兄弟で親の遺産を公平に分割して、仲良く守って行こうね!」という習慣があったので、それを法律でしっかり定めたのです。残念なことに、大帝よりも先にルートヴィヒという息子以外は亡くなってしまったため、あまり意味がなくなってしまったのですが。

しかも相続人が一人になって万々歳というわけでもなく、カール大帝の死後、このルートヴィヒ1世が末の息子を溺愛したがためにフランク王国は分裂してしまいました。
末っ子をえこひいきするとロクな結果にならないというのは古今東西のテンプレですね。
もしかして、ルートヴィヒ1世がアホすぎたから父親のカール大帝がより偉大に見えてたりするんでしょうか。ありえなくもなさそうなところが何ともいえません。

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