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その日、歴史が動いた 音楽家

水の都に生まれた不遇の大作曲家アントニオ・ヴィヴァルディの一生

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芸術家といえば皆スゴくて尊敬されていたというイメージがありますが、実はそうとも限りません。
作品だけが有名であり続けて本人が忘れられてしまっていることもあれば、どんなに才能があっても時代を先取りしすぎて理解されず、苦しみや貧困の中で亡くなることも珍しくありません。
今回はそこまでではなくても、知名度に似合わぬ不遇をかこった、とある作曲家のお話です。

1741年(日本では江戸時代・寛保元年)7月28日、イタリアの作曲家アントニオ・ヴィヴァルディが亡くなりました。

昨日のサラザール(ポルトガルの独裁者)と同じファーストネームですが、特に深い意味はありません。

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【TOP画像】アントニオ・ヴィヴァルディ/Wikipediaより引用

 

ドラマや映画で誰しも一度は聞いたことがあるハズ

ヴィヴァルディは、この曲で有名な人ですね。
【和声と創意への試み 四季・春】

あるいは人によっては、こちらのほうが馴染み深いかもしれません。
【和声と創意への試み 四季・冬】

いずれもドラマや映画、テレビ番組などでお馴染みでしょう。

しかし、その作曲者がどんな人物だったか?

お答えできる方は少ないかと思われます。というか、作曲家で曲以外のエピソードが知られている人というとごくごくわずかなんですよね……。
モーツァルトがマリー・アントワネットにプロポーズしたとか、ベートーベンは人生の半分以上耳に異常を抱えていたとか、あとはリストの演奏技術が「嘘だろ、コレ、おかしい(直球)」とかですかね。
まあそれはさておき、ヴィヴァルディのお話をしましょう。

 

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「教会よりも商売が大事!」の地に生まれ

彼はまだ統一されていなかった頃のイタリアにあった「ヴェネツィア共和国」に生まれました。今も「水の都」として有名なあのヴェネツィアです。
当時はイタリアの中でも貿易と海軍によって反映を築いていた都市国家で、9世紀に商人が作ったのが始まりといわれております。そのためヨーロッパでは珍しく、建前だけでなく心の底から「教会より商売が大事!」と言っていたようなところです。

欧州好きでなくても一度は行ってみたい、水の都・ヴェネツィア/Wikipediaより引用

 

お金があるところには文化も育つわけで、ヴィヴァルディは父が理髪師兼ヴァイオリニストだったため、楽器に触れる機会を得ました。
当時の理髪師は外科手術を行うこともあったそうなので、乱暴な言い方をすれば手先の器用さを受け継いだのかもしれません。

そんなわけであまり身分の高い人ではなかったので、生まれてからしばらくの間の記録はハッキリしておりません。
確実なのは、父からヴァイオリンの手解きと簡単な音楽の知識を与えられていたこと、10歳で教会付属の学校に入ったことぐらいでしょうか。

当時のヨーロッパでは、音楽をやっていくためにスポンサーが不可欠。聖職者であればコネを作るのも比較的簡単だったので、そのような道を選んだものと思われます。

 

日本人にはピンとこない「赤毛は病弱!?」

ヴィヴァルディは頭もそこそこ良く、15歳で剃髪し、20代前半のうちに聖職者としての階級も上がっていきました。
ただし、赤毛だったためにそれをからかうようなあだ名もつけられたそうです。
これまた日本人にはピンとこない話ですけれども、欧米圏ではかつて赤毛の人は体が弱いという理由で差別やからかわれるのが当然という状況だったからです。

現代の有名人では、イギリスのヘンリー王子が「やや赤みがかった髪だから」という理由で、学生時代におちょくられたといわれていますね。今ですらそんな状況ですから、ましてや何百年も前の庶民なら尚更でしょう。
聖職者をおちょくるのは罰当たりだと思うんですけれども、あちらにはそういう概念がないのかな……。

ヴィヴァルディは喘息らしき持病があり、ミサを執り行うのもやっとということが珍しくなく、それも関係しているかもしれません。
ただし、彼には能力的には優れたものがあり、「病気なんだから無理してミサしなくていいよ」と教会からお達しが出て、教会勤めではなく在俗の聖職者として生活することになりました。
仏教でも在俗のまま出家することができますから、多分それと似たような感じだったと思われます。そのまま在俗司祭として生きていたら、ヴィヴァルディの名も曲も残ることはなかったでしょう。
ここから彼はキリスト教の孤児院で音楽の先生になり、作曲も行うようになっていきました。

 

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あの音楽の父もヴィヴァルディの楽譜を入手していた

楽譜を出版してからはイタリアだけでなくヨーロッパ中に名が知られるようになります。同じ時期に生きていたバッハも、ヴィヴァルディの楽譜を手に入れていたそうです。
生きている間に同業者から認められるというのは、芸術の世界ではなかなか珍しいですよね。

そして人気が上がるにつれて大掛かりな仕事をするようになります。オペラを書いたり、貴族のお抱え演奏家に教えたり、ヨーロッパ中へ演奏旅行に行ったりもしました。ローマ教皇の前で演奏したことや、神聖ローマ皇帝へ曲を献呈したこともあったようです。
近年の音楽家で例えれば、カラヤンみたいな感じでしょうかね。あの人は正確には指揮者ですが。

人気が安定した頃には既に40代半ばで、しかも演奏旅行をしていた期間が非常に長い人でした。
旅先でもコンスタントに作曲できるタイプだったらしく、未完や紛失、他の人との共作を含めると総作品数は800以上!それでもまだ未発見の曲がありそうだとのことなので、全数は計り知れません。
「四季」があまりにも有名なため、他の曲が埋もれてしまっている感もありましょう。

この大先生もヴィヴァルディに影響を受けていたのですね/Wikipediaより引用

 

一旅行者としてウィーンの共同墓地に眠る

ただ、その生活は身体的な負担が大きく、ウィーンの劇場にあった作曲家用の宿舎で突然亡くなってしまっています。どこか内臓を病んでいたらしいといわれていますが、63歳という年齢のためか、さほど調査もされないまま埋葬されてしまいました。
これには、当時のウィーン=オーストリア帝国自体が、作曲家に構っていられる状態ではなかったことも大きく影響しています。

当時の皇帝・カール6世はヴィヴァルディのよきパトロンでしたが、彼が亡くなって一人娘のマリア・テレジアが帝位を継ぎ、新興国家プロイセンとの戦争が始まっていたのです。その辺の話は以前しておりますので、ご興味のある向きはこちらへどうぞ→過去記事:マリーアントワネットの肝っ玉母ちゃん(17才の頃は超絶美少女) 女帝マリア・テレジアの誕生日【その日、歴史が動いた】
戦争中に芸術活動が自粛されるのは、いつの時代のどこの国でも同じですね。

そんなわけで、偉大かつ人気を博した作曲家であったにもかかわらず、ヴィヴァルディは単なる一旅行者として、ウィーンの共同墓地に葬られてしまったのです。
しかもその70年ほど後に墓地を取り壊してウィーン工科大学が建てられてしまったため、今では墓石の一つすらない状態。一応、大学の建物の一角に小さなプレートが取り付けられているそうですが、いかにも申し訳程度のものです。
いくら戦争中だからってあんまりな扱いじゃないですかね(´;ω;`)

 

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勇者が某竜王を倒すゲームの好きな人はコチラをどうぞ

当時の王侯貴族にとって、芸術家なんてヒマつぶしのおもちゃ程度にしか思われていなかったのでしょうか……。
ヴェネツィア共和国としても、自国で亡くなったわけでもない一個人を引き取るほどの思い入れはなかったでしょうし。可能性を考えれば考えるほど目から汗が。
最近よくある「没後◯百年記念」とかで、ちゃんとしたお墓を作ってあげてもいいんじゃないでしょうか。あと26年したらちょうど300年ですし。

「四季」以外はほとんど日本では知られていませんけれど、某竜王を倒しに勇者が旅に出るゲームの曲が好きな方はハマりそうな気がするので、最後にもう一つご紹介しておきますね。

【調和の霊感・第10番第1楽章】

こういう「いろいろな楽器が交代で出てくる曲」ってゲーム音楽でもよくありますし、そういう視点でとらえれば、クラシックはもっと広く親しまれるような気がします。

芸術家にとって、自身の作品を愛されることが一番の供養でしょう。

長月 七紀・記




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参考:世界恩人巡礼大写真館 アントニオ・ヴィヴァルディ/Wikipedia

 

 




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