1632年(日本では江戸時代・明正九年)10月31日は、画家として有名なヨハネス・フェルメールが誕生した日です。
「牛乳を注ぐ女」や「真珠の耳飾りの少女」などでよく知られておりますが、実は彼、一時世間から忘れられたような存在になっていたことがあります。
一体どういう経緯だったのか。
彼の一生を追いかけてみましょう。
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成人後に絵を描き始めたフェルメール
ヨハネスは、オランダ西部のデルフトという街で生まれました。
国際司法裁判所があるハーグや、港湾都市として有名なロッテルダムの中間辺りです。
そういった立地ゆえか。ヨハネスの父はいろいろな商売をしていました。
絹織物職人、パブ兼宿屋のオーナー、画商……。と、関連性のよく見えない職選びですが、人の出入りが激しい土地と考えれば納得できなくもないですね。
「いかなるビジネスチャンスをも見逃すまい!」という執念じみた意地を感じます。
他の多くの画家や芸術家が幼少期から才能を表していたのとは対照的に、フェルメールは成人・結婚した後に絵を描くようになりました。
結婚までの道のりは簡単ではありませんでした。
というのも、奥さんのカタリーナがカトリックで、フェルメールがプロテスタントだったのです。
そのためカタリーナの母マーリアが大反対。
しかし二人の意思は変わらず、知り合いの画家に立会人をやってもらって結婚を強行します。
数年後にはカタリーナの実家へ婿入りするような形で生活するようになっているので、その後は丸く収まったようですね。
ヨハネス夫婦には15人も子供がいたので、どちらにしろ実家に頼らざるを得なかったという面もありましたが。
いささか家族計画がユルユルすぎな気も……。
当時高級品だった「青い絵の具」を惜しみなく使えたから
彼らの家族は1655年、父の経営していたパブ兼宿屋を継ぐと、少しずつ収入も安定していきました。
これが作品の特徴である「フェルメール・ブルー」を生み出すことになります。
「フェルメール・ブルー」とは、当時超高級品だった青い絵の具を、フェルメールが惜しみなく使ったことから付けられたあだ名です。
この頃、青い絵の具というのは天然の鉱石から作っていました。
ラピスラズリという石です。パワーストーンなどがお好きな方はご存知ですかね。
この石はヨーロッパでは産出せず、当時一番近い産地はアフガニスタンでした。
しかしアフガニスタンは完全な内陸国ですから、陸路を取ろうが海路を取ろうが、ヨーロッパへ運ぶには相当の手間とお金がかかります。
多くは海路で運ばれたので、ラピスラズリから作られた青い色の絵の具を「ウルトラマリン」=「海越え」と呼ぶようになりました。
ラピスラズリには他の鉱物や金属が交じることが多いため、青色を得られる部分がさらに減るということも高級品になってしまった原因かと思われます。
また、藍銅鉱(らんどうこう)=アズライトという鉱石も青の絵の具として使われていました。
こちらもフェルメールの時代には産出量が減っていたため、やはり高級品だったとか。
現在、青い絵の具を苦なく使えるのは、もう少し時代が下ってから合成染料・顔料が発展し、青色系統がたくさん出てきたためです。
それまでは高価でなかなか使えなかったからこそ、皆一生懸命になって開発したんでしょうね。
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