綿の歴史

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欧州で「木のウール」と呼ばれた綿の栽培~コットンの歴史に迫る

5月10日は「木綿の日」だそうです。

「510」=「コットン」と読めるからだとか。

今や世界的に用いられている繊維のひとつですが、一体どのようにして広まっていったのか。

日本での普及も含めて綿の歴史を振り返ってみましょう。

 

最古の綿栽培はメキシコ 8000年前の種も!?

最古の綿栽培の証拠が見つかっているのは、メキシコです。

同地域では、実に8000年ほど前の種も発見されており、これが現在世界中で広く栽培されているのと同種類の綿なのだとか。

メキシコは野生の木綿の種類が最も多い、ということも説得力がありますね。

次いで、オーストラリアやアフリカが多いそうです。

メキシコ以外の南北アメリカ大陸諸地域では、かなり古い時代から綿織物を作っていました。

中には、古代エジプトと似たような染め方や折り方をしているものもあるんだとか。

偶然の一致かもしれませんが、何だかロマンを感じる話ですね。

例えばペルーでは、川の上流地域で綿花を栽培し、糸を紡いで漁網を作って、漁村との交易をしていたといいます。

おそらくは魚などの海産物と交換していたのでしょうね。これぞWIN-WIN。

メキシコでも継続して綿花の栽培や木綿の生産が行われていたらしく、ヨーロッパ人がやってきた頃には、綿の衣服が普及していたそうです。

アラビア半島でも、紀元前5世紀頃から木綿を栽培していたとみられています。

資料が少なくて詳細がよくわかっていませんが、気候としては綿の栽培は不可能ではなかったでしょう。

マルコ・ポーロはペルシア(現在のイラン)の主要な産物として木綿を挙げていますし、17世紀の旅行家も「広大な綿花農場がある」と記していますので、おそらくは継続して大々的に綿花の栽培が行われていたと思われます。

他、インドやバングラデシュなども7000年前頃から木綿を栽培し、糸や布として製品にしていました。

紀元前のうちに輸出もしていたようです。

 

「インドには羊毛が生える木がある」

木綿は亜熱帯の植物のため、上記のような温暖~暑い地域での栽培が主流です。

つまり、気候の涼しいヨーロッパでは育ちにくく、ギリシアなどでは「インドには羊毛が生える木がある」とまでいわれていました。

この認識は長く続き、ヨーロッパ各国の言語における「綿」は「木のウール」を原義とするものがあります。

確かに、綿花の実が弾けたところ(コットンボール)は、羊毛が生えているように見えますね。

たまに花屋さんやクリスマスオーナメントのコーナーなどに置いてあるので、目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

14世紀に想像で描かれた綿花栽培の様子がまさに「木のウール」/Wikipediaより引用

いつしかアラブ商人が綿織物や木綿の栽培法をイタリア・スペインなどの南欧に伝え、綿はヨーロッパ人の憧れとなります。

そして17世紀にイギリス東インド会社がインドの綿織物をイギリスに輸入し、綿の有用性がよりハッキリしてからは、これを大量に確保するためのさまざまな策謀がなされました。

16世紀頃にはアジアやアメリカの温暖な地域で綿花が栽培されるようになっていましたが、相変わらずヨーロッパでの栽培は難しい状況が続きます。

有用性がわかっているのに、自国で生産できないというのはもどかしいものです。

イギリスはインドを植民地としたことで、安価に綿を輸入し、自国内で織物に仕立てるようになりました。

しかも、「インドから綿花をイギリスに運び、イギリスで仕立てた綿織物をまたわざわざインドに運んで、インド人に買わせる」というあくどいやり口です。

このため、インドの綿織物産業は衰退していきました。

まあ、この頃イギリスでも毛織物産業が圧迫されていたのですが……。

「インドの寒冷地帯向けにイギリスの毛織物を安めに売り、その代わりにインドの綿織物を輸入してヨーロッパで売りさばく」とか、もっといいやり方があったでしょうに、自国民も他国民も苦しめて何がしたいんですかね。

それでも儲かってるというのがもうワケワカメ。

 

綿花のプランテーション拡大に伴い奴隷の酷使も拡大

こうして、イギリスは産業革命による生産性向上と、安い原材料の確保が同時期に確立でき、自国産の綿織物を大量生産・大量輸出できるようになりました。

そのうちインド産の綿花だけでは足りなくなり、アメリカや西インド諸島からも綿を買い付けるようになっていきます。

それに応じて、これらの国では綿花のプランテーションが営まれるようになり、人件費削減のために奴隷が酷使されました。

南北戦争によって、一時アメリカからの綿花の輸出は激減していますが、大きな問題にはなっていません。

これは綿花農場を多く持つ南軍の策で「スイマセンねー今ウチ戦争中なんで綿花送れないんですよ^^; イギリスさんが助けてくれれば、またすぐ送れるようになると思うんですけど」(※イメージです)というアピールだった……という説もあります。

しかし、イギリス(とついでにフランス)は「あっそう大変ダネー。ならエジプトから送ってもらうから気にしないで^^」(※イメージです)とあっさり輸入先を切り替えてしまいました。

もちろんインドからも引き続き輸入しています。

南軍の人質ならぬモノ質作戦は失敗したわけです。

が、これによってエジプトは結果的に苦境に陥ります。

国家産業を綿花輸出に依存しすぎたのです。

南北戦争が終わると、イギリスとフランスはまたアメリカの木綿輸入を再開。

このためエジプトへの需要が自然と減って、国の収益は赤字で四苦八苦し、1876年にはとうとう国家破産にまで陥ります。

これにより、1882年にイギリスの保護国と化し、後々に禍根を残すようになります。

 

ソ連時代に拡大し続けた中央アジアの綿花生産

アメリカから綿花を輸入できなくなって困った国がもう一つありました。

ロシアです。

当時のロシアは繊維工業が成長している最中で、綿花が入ってこないと大いに困る状況。

しかも、イギリスのようにそう簡単に代替先を見つけられませんでした。

そこで、近場で綿花栽培に適した土地を探します。

白羽の矢が立ったのは、当時併合して間もないトルキスタン(現在の中央アジア一帯)です。

同地域では35年ほどでロシアが必要とする綿花の7割を供給できるまでになったのですが、あまりにも急だったために人手や資金が足りず、農民の困窮を招きます。

また、穀物から綿花への転作によって飢饉も発生しました。

ソ連時代を通して中央アジアでの綿花生産は拡大し続け、現在でもトルクメニスタンやウズベキスタンでは綿花の栽培が主要産業となっています。

その代わり、アラル海が干上がるという深刻な環境破壊の原因にもなりましたが……。

一方、アメリカも負けておらず、南部の綿花農場は広がり続けました。

1950年代に収穫用の機械が導入されるまで、綿花農場は多くの雇用機会を生んでいます。労働者の待遇はまた別問題ですが。

生産量はやはりトップクラスで、現在も綿花はアメリカ南部の主要輸出品のひとつとなっています。

農作物には病害もつきもので、綿花にもそうした事件がありました。

20世紀に、ペルーで大規模な綿花の病害が発生し、一時期生産量が激減しています。

しかし、ある農家が10年間かけて研究し、「タンギス綿」という病気に強い種を開発。

この種は他に

「従来の品種より40%長く太い繊維ができる」

「水が少なくても育つ」

という長所を持ち合わせています。

まさにいいとこ取りで、現在、タンギス綿はペルーの綿花の75%にものぼるそうです。特許が取れるのでしたらボロ儲けでしょうね。

 

日本では戦国後期から需要が広がり始めている

さて、日本を含めた東アジアでの綿花事情はどうでしょうか。

まず中国へ伝わったのは意外と遅く、10世紀前後の頃とされています。

朝鮮には14世紀、罪に問われる危険を冒して、中国から伝えた人がいたといいます。

日本には中国と同時期に一度、綿花が伝わったことがありましたが、うまく栽培できず種が絶えてしまいました。

そのため、戦国時代辺りまで木綿は中国からの輸入に頼っており、高級品とみなされていたのです。

しかし、戦国時代後期から綿の需要が拡大し、国内での生産も大々的になっていきました。

理由は定かではありませんが、外国から栽培のコツが伝わったんですかね。

三河などでは1500年代に木綿を作り始めたようなので、密かに試行錯誤をしていた家があったのでしょうか。

大河ドラマでも井伊直虎が綿栽培を推し進めておりましたよね。

そもそも種がなければ作れませんが、日本側から頼んで外国から輸入したのなら、それなりの記録が残っていてもいいはずですし……。

となると、他の輸入品に紛れて・間違えて入ってきたか、中国や朝鮮の商人がたまたま持ち込んだか、というところでしょうか。

李氏朝鮮でも綿の栽培はやっていたようなので、朝鮮の役で帰ってきた武将や兵がたまたま持って帰ってきた、というのもあるかもしれませんね。

今のところ真相が分からないことに変わりはないですが。

 

戦国最強・水野勝成も奨励していた!?

江戸時代の大名にも、綿花栽培を広めた人が何人かいます。

例えば、水野勝成です。

父親に勘当され、新たな士官先でも暴れて主君替えを繰り返す暴れん坊……そんな経歴からすると意外なイメージですね。

勝成は福山藩に入った後、綿の生産を奨励し、綿織物がたくさん作られるようになりました。

そして備後絣が生まれています。

また、現在「今治タオル」で有名な今治も、かつて今治藩だった頃に木綿の生産が奨励されていました。

現代日本では中部地方以南が綿花の栽培に適しているとされるので、寒冷な江戸時代はもう少し南の地域が最適だったかもしれませんね。

江戸時代に「殿様も木綿の着物を着て財政再建に励みました」という話がときどき出てきますが、大々的な生産が定着し、庶民にも木綿が広まっていたからこそ、そうした行動が支持を集めることになったのでしょう。

もしこれが「木綿=高級品」の時代のままだったら、庶民の心象は変わらなかったと思われます。

明治時代にも綿の生産は奨励され、1930年代には日本の綿布は世界一の輸出量を誇っていました。

しかし、次第に安い外国産の綿花に押され、国内の栽培事業は廃れていきます。

それでも戦後の一時期、再び世界一になったそうですが。綿農家の根性すげえ。

 

児童労働や長時間労働などの問題を抱えており……

現在ではやはり外国産の綿に押され、国内自給率はほぼゼロになっています。

それでも小規模ながら国産のオーガニックコットンを生産したり、和綿の復活に挑戦している人たちもいるそうで。

一方、外国産の綿花には問題も潜んでいます。

質がどうという話ではなく、児童労働や長時間労働、低賃金などの労働問題です。

農業国ではよく聞かれる話ですが、特にインドの木綿農場では深刻な話。

農薬を使いすぎて耐性菌ならぬ耐性虫が増えつつあり、むしろ農場で働く人間の方に農薬の悪影響が出ているんだとか……。

日本や先進国が持っている、オーガニックコットンの栽培技術をインドに伝えることはできないものでしょうかね。

オーガニックというとオシャレなイメージも強いですが、農薬を使わないことで、農場で働く人を守ることにも繋がるというのは大きな意義があるように思います。

人権団体も動いているようですので、同時に産業界も動いたらお互い良い効果を生む気がします。

企業のイメージアップにも繋がりますし、巡り巡って売上にも繋がる……かも?

かつてのインドやアメリカといい、木綿の歴史は「産業の一点集中は危うい」ということがよく分かる事例といえそうです。

日本も某業界が危うい感じになってきていますし、轍を踏まないようにしてほしいものですが……はてさて。

長月 七紀・記

【参考】
木綿/Wikipedia

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