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【エドワード7世】
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アルバートが亡くなってちょうど10年後、エドワード7世が30歳のとき、父と同じ腸チフスにかかってしまったのです。
一時は危篤状態に陥り、世論も女王も皇太子の病状を心配しました。
そしてアルバートの命日である12月14日、エドワード7世は奇跡的に意識を取り戻します。
その後も順調に回復していくと「まるで、アルバートが息子を救ったようだ」と評され、イギリス中が歓喜に沸きました。
グラッドストンはこれを好機と見て、セント・ポール大聖堂で「皇太子回復感謝礼拝」と題した大規模な礼拝を執り行います。
民衆からは「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という歓声がかけられ、一気に王室の人気が復活。
まるでマンガや小説のような話ですが、こうなると本当にアルバートが妻や息子を助けに来たような感じがしますね。
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インドへ公式訪問 ここでも関係改善に務める
病気から立ち直った後、エドワード7世はより温厚になり、かつては恨んでいたプロイセンやビスマルクにも友好的になりました。
ウィーン万博ではプロイセン王ヴィルヘルム1世にも話しかけ、親交を育もうと努力しています。
ロシアとの関係改善にも引き続き努めました。
すぐ下の弟であるエディンバラ公アルフレッドが、ロシア皇帝の娘マリアと結婚することになったとき、エドワード7世は再びロシアを訪問しています。
エドワードの二度目にわたる厚情に対し、ロシア側も「全皇族による出迎え」という異例の歓迎ぶりで応えています。
おそらく英露両国の関係が最も友好的になったのがこのときでしょうね。
35歳のときには、英領になっていたインドへの公式訪問も行いました。
皇太子である自分が公式に訪れ、インドの王侯に勲章を配ることで、関係改善に努めようという狙いです。
やっぱりヴィクトリア女王には反対されましたが、首相のベンジャミン・ディズレーリも味方についてくれ、実現しました。
インドでは勲章授与やインド軍の閲兵など、仕事をきちんと行うかたわらで、狩りなども楽しんでいます。
輿をつけた象に乗っている写真もありますし、割と本気で楽しんでいた様子が窺えます。
ただその後、議会でヴィクトリア女王のインド女帝即位が決まったことについては、あまり好ましく思っていなかったようです。
自身の即位後も“インド皇帝”の称号はほとんど使っていません。
エドワード7世は、その後もフランス・ロシア・プロイセンとの友好に努め、訪問や支援にも積極的に行いました。
しかしその一方で、賭け事に端を発する裁判の当事者ともなっており、再び厳しく批判されます。
ニューヨーク・タイムズでは「イギリス王室は国のお荷物」とまでいわれてしまいました。
57歳で初めて母に真っ向から反抗!
またその頃、結婚間近だった長男アルバート・ヴィクターを亡くすなど、私的な不幸にも遭っています。
嫁になるはずだったドイツのヴュルテンベルク王女・メアリーはそのまま「娘」として扱いました。
世論もメアリーに同情し、彼女は次男のヨーク公ジョージと結婚することになります。
翌年には初孫となるエドワード(後のエドワード8世・「王冠を賭けた恋」の人)が生まれているので、せめてもの慰めになったでしょうか。
57歳のとき、エドワード7世は母に対して初めて真っ向から反対しました。今までは対立するたびに、周囲の協力も得て説得し、和解してから行動をすることをにしていたのですが、このときはそれがありませんでした。
何がきっかけだったのかというと、このときまで4回首相を務めたことがある、グラッドストンの葬儀です。
グラッドストンはヴィクトリア女王と不仲で、エドワード7世には同情していたので、何かと味方になってくれていました。
彼にとっては恩人なわけです。
しかし、ヴィクトリア女王は、グラッドストン夫人に弔電を打つ以上のことをしたがりませんでした。
気分屋といわれ続けた彼女らしいといえばらしい話ですけれども、「王族が功臣の国葬に関与しない」というのも大問題。
エドワード7世もそのように考え、独断で次男のヨーク公ジョージと共に、棺の介添人を務めています。
この一件は「晩餐会に遅刻したとき、母に睨まれただけで震え上がった」ことさえあったエドワード7世にとって、初めての反抗とも呼ぶべき出来事でした。
父であるアルバートとは最後の最後に和解できたと思われますが、存命中の母はいつまでも彼の恐怖の対象だったのです。
「いつまで子供なんだよ」とツッコミたくなった方もおられるでしょうけれども、あの家康でさえ、関が原のためにアレコレやっていた頃、母である於大の方の意向を完全には無視できませんでした。
どこの国でも「母は強し」なんですね。いろんな意味で。
とはいえ、やはり肉親の死は堪えるものです。
1901年、エドワード7世が60歳になる年にヴィクトリア女王が亡くなりました。
そのとき、彼は涙を流しながら枕辺に侍り、女王もまた最期に「バーティ」と息子を愛称で呼んだそうです。
素直になれないだけで、親子の愛はとても深かったのでしょうかね。
異教徒には授与しないガーター勲章を明治天皇へ
母の死の翌日、エドワード7世は即位しました。
本当は彼の名前は「アルバート・エドワード」でしたので、「アルバート1世」を名乗ってもおかしくはありません。
あえてそうしなかったのは、「イギリスで“アルバート”といったら、誰もが父のことを思い出すようにしたい」という彼自身の意志によるものでした。泣ける。
“エドワード”という名の王様は、イギリスでは350年ぶりだったといいます。
即位した歳が歳なので、エドワード7世の治世は9年ほど。
内政や戦争ではうまくいかないことも多く、亡くなるまで解決しなかった問題もありました。
しかし、外交では皇太子時代から育んできたロシアやフランスとの友好的関係を維持することに務め、議会が険悪な方向に向かいはじめたときは、直ちに行動して路線を戻しています。
前述の通り、彼は昔から他国をよく訪問し、そのたびに歓迎を受けていたので、親戚である王族たちだけでなく、他国の一般国民にも良い印象を持っていたのでしょう。
とはいえ、私的な感情に振り回されることはありませんでした。
ドッガーバンク事件や日露戦争の際には、甥っ子であるニコライ2世に肉親の情を挟まず、冷静に対応しています。
かつて伊藤博文が訪英した際、英語で直接話ができたこともあり、同盟中の日本にも好印象を持っていたようです。
本来は異教徒に授与しないガーター勲章を、明治天皇にはあっさり贈ったのもその現れでしょう。
授与にはエドワード7世の弟であるコノート公アーサーが訪日しており、日本側は答礼として大名行列を催したとか。
既に「侍」がいなくなった後の話だと考えると、何だか微妙な気持ちになりますけれども。
ちなみに、非キリスト教徒でガーター勲章を代々授与されているのは日本の天皇だけだそうです。
日英同盟時代以来のこと、そして現在の両国君主にとっての曽祖父からのことと考えると、王室・皇室外交の重要性がわかりますね。
とはいえ、民主主義が進むにつれて、王室・皇室外交の影響力は弱まっていくのですが……。
教科書や通史を取り扱う本で、王族・皇族の記述が減っていくのも、このあたりからですね。
だからこそ関連人物が多くなり、覚えにくくわかりにくくなるのかもしれません。
エドワード7世は1910年に気管支炎で亡くなりました。
最後の言葉は「私は絶対に病には屈さない。最後まで仕事を続けるぞ」というものだったそうです。
緊張に向かう一方の内政や外交関係などについて、やり残したことがまだまだたくさんあると思っていたのでしょう。
その懸念は四年後、第一次世界大戦という最悪の形で現れることになります。
長月 七紀・記
【参考】
エドワード7世/wikipedia