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【サラ・ベルナール】
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自宅ではクッションを敷き詰めた棺桶で休んでいた!?
1893年以降は複数の劇場で座長もこなしながら演技を続けました。
彼女の栄光を称える「サラ・ベルナールの日」という祭典がパリで開かれたとき(1896年)には、200台もの二人乗り馬車が移動に使われたといいます。
このときにはサラを称える歌曲も演奏されました。
当人の存命中に個人を称える歌が作られるってスゴイですよね。
もちろん絶賛だけではなく、ときには中傷や悪意も受けていますが、サラにとってはささいなことでした。
1905年のカナダ・ケベック興行では、地元の大司教が「あの女優は官能的過ぎる」と大仰に批難し、観劇に行かないよう住民に呼びかけたため、いつもよりも空席の目立つ上演となったそうです。
そういうものを見たとしても、正しい道に戻れるよう導くのが聖職者だと思うんですがね。
自分が変なこと考え過ぎなんちゃう?(´・ω・`)
しかし、この栄光の裏で、徐々にサラの体は結核に蝕まれていきました。
たまに話題になる「サラ・ベルナールは、自宅ではクッションを敷き詰めた棺桶で休んでいた」というのは、この頃のことです。
そこだけ切り取られるとヤバイ感じの人に思えてしまいますけれども、サラなりに死に対する覚悟を決めるための道程だったのでしょう。
キリスト教の考えで行くと、最後の審判の日まではずっと棺桶の中にいなければならないわけですし。
1890年には膝の骨結核を発症し、1915年には右足を切断するほどにまで進行。
結核は肺だけじゃなく、サラのように膝関節で発症することもあれば、他の内臓や神経系やリンパ系で起きることもあるそうです。こわい。
生涯現役! その言葉が持つエネルギーとはかけ離れながら……
それでもサラは、座ったままで演技の仕事を続けました。
理由は不明ですが、義足をつけるのはどうしても嫌だったようです。
見た目の問題でしょうかね……。
彼女本来の闊達さは失われておらず、第一次大戦中には椅子持参で前線のフランス兵の慰問をしていたそうです。
また、自ら「ほら、ホロホロ鳥よ!」とネタにすることもありました。
周囲から見ていると痛ましいことですが、サラは女優としての仕事を生涯続けていくのです。
なんせ1923年に73歳で亡くなったときも、映画の撮影期間中でした。
当時はまだ映画というものが広まり始めた頃でしたので、サラは「自分が動いて演技をしているところを、後世に残したい」と思ったのでしょうか。
”生涯現役”というと何となくエネルギーに満ち溢れた人を連想しますけれども、サラの場合はいろいろな事が重なって、何だか切なく思えてきますね。
それがまた、彼女の伝説を美しく見せているのかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
サラ・ベルナール/Wikipedia