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【ヨハネス・ブラームス】
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ハンガリー舞曲の第一番は世界でレコーディングされた
もちろん、作曲の腕についても広く認められていました。
バッハやベートーベンを尊敬するのはもちろん、それまであまり注目されていなかったドイツ民謡も作曲。
その一方で夏のイタリアを愛し、度々訪れては居心地の良いところへ滞在して曲を書いていたようです。
これらが融合した結果、ブラームスの曲はドイツの作曲家にしては明るく展開していく旋律が多いように思えます。
ハンガリー舞曲第5番も、後半は結構明るいですしね。
「クラシックって重苦しくて眠くなる(´・ω・`)」というイメージの方が多いかと思うのですが、ブラームスなら聞きやすいかもしれませんよ。
また、ハンガリー舞曲の第1番は「世界で初めてレコーディングされた音楽」なのだそうで、歴史が動いた瞬間に立ち会った作曲家でもあります。
このとき50代半ばになっており、老いを感じたことから作曲を辞めようとしていたとか。
しかし、リヒャルト・ミュールフェルトという超一流のクラリネット奏者の演奏を聴き、ブラームスは「ワシもまだまだイケる!」と自信を取り戻します。
そしてクラリネットを主役にした曲をいくつか書き、さらに名声を高めました。
日本の琴にも興味があったとか!?
世間のジャポニスム(日本趣味)の影響を受けてかなのか。
晩年には日本の琴にも興味を持っていたようです。
残念ながら曲を書くまでには至りませんでしたが、もし良い演奏者と出会えていたら、一部分だけでも琴を取り入れた曲を書いていたかもしれませんね。
ブラームスは後半生をウィーンで過ごし、亡くなったのもウィーン。
そのためお墓もこの地にありますが、ハンブルクの生家もしばらくの間残されていたそうです。
しかし、第二次世界大戦で行われたハンブルク大空襲(1943年7月)で焼失してしまいます。
このときは火災旋風が起きた上、各家庭にあった石炭などの燃料が延焼と類焼を繰り返したといいますから、ブラームスの生家に当時人が住んでいてもいなくても、ひとたまりもなかったでしょう。
お墓が無事なだけでもまだマシ……でしょうか。
ちなみにブラームスのお墓には本人そっくりな気難しい顔の彫像が立っています。
お隣はヨハン・シュトラウス2世のお墓だそうで、どんだけ仲良しなんだ?という微笑ましいことになっています。そういう遺書でもあったんでしょうか。
もし最後の審判と復活が両方本当に起きて、二人ともおkが出たとしたらビックリするかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
『大作曲家たちの履歴書(上) (中公文庫)』(→amazon)
『大作曲家たちの履歴書(下) (中公文庫)』(→amazon)
ヨハネス・ブラームス/Wikipedia
世界恩人巡礼大写真館(→link)