リスボン地震(リスボン大震災)

リスボン地震(リスボン大震災)火災と津波によって破壊されたリスボンの市街/wikipediaより引用

ポルトガル

M9.0のリスボン地震(1755年)宰相セバスティアンはどう対応した?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
リスボン地震(リスボン大震災)
をクリックお願いします。

 

暗殺未遂事件の関係者を容赦なく処刑

こうしてリスボンの街の復興を手がけたセバスティアンをジョゼ1世はますます信頼しました。

というか、自分が遊びたいがために仕事を押し付けました。もう嫌な予感がしますね。

案の定、「何でアイツだけあんなに力を持っていい思いをしてるんだ! そんな状態を認める王も王だ! ブッコロ!!」(超訳)と考える貴族が大多数となり、ついにジョゼ1世とセバスティアンの暗殺未遂という大事件が起きます。

経緯がそもそも逆恨み同然ですし、国王と宰相を手に掛けようとするのは重大な反逆です。

そのため、セバスティアンは少しでも関係があるとみなした者を容赦なく捕らえ、拷問の後に処刑していきました。その中にはジョゼ1世の異母兄弟姉妹もいたようで、彼の断固とした姿勢が窺えます。

また、イエズス会も暗殺に関与したとして、財産没収の上ポルトガルから追放しました。

上記の水葬についてもそうですが、金融を握っていたユダヤ人の待遇を見直すなど、セバスティアンはたびたびイエズス会と対立していたため、これを好機としてまとめて片付けようとしたのでしょう。

当時のカトリックからすれば「お金=汚いもの」「ユダヤ人=ユダの末裔だから汚い奴ら」→「なら汚いものは汚い奴らに扱わせよう!」というのが当たり前だったので、それを否定するセバスティアンが許せなかったのも無理はありません。

震災後に推奨されたポンバリーナ様式の耐震構造/ photo by Galinhola wikipediaより引用

 

イベリア半島の独裁者は割と穏やかな天寿をまっとう

また、セバスティアンは「ポルトガル国内に黒人奴隷を連れてきた場合は、即座に開放すること」という制度を作りました。

人道的な感じもしますが、これはただでさえ人手不足の植民地で、さらに労働者が減るのを防ぐという合理的な理由のほうが大きかったようです。その辺はまあ、この時代の人だから仕方ないですね。

こうして国王の代わりに多方面の改革を行ったセバスティアンでしたが、その反動もまた多岐にわたりました。

ポルトガル最大の植民地であったブラジルは、次第に独立の兆しが見え始めます。

また、ジョゼ1世が亡くなって娘のマリア1世が国王になると、宮廷どころから「女王から20マイル(約32km)以内に近づくな」とまで言われるほど嫌われてしまいました。

領地を取られたわけではなかったので、その後は田舎で穏やかに暮らしていたそうです。

マリア1世が近所にやって来たときは、セバスティアンのほうが出ていかなければなりませんでしたが、独裁者としては静かな晩年だったといっていいでしょう。

まあ、仕事をちゃんとしてて庶民から(比較的)恨みを買っていないのですから、当たり前ではありますけども。

イベリア半島の事情を知ると、「独裁者」の定義やイメージがちょっと変わるような気がします。

長月 七紀・記

TOPページへ

 

-ポルトガル
-

×