盛者必衰は歴史の常。
かつて世界帝国とされた国だって、今もそのまま残っているところはまずありません。
それはあのローマ帝国も同じことでした。
1453年(日本では享徳二年)5月29日は、首都コンスタンティノープルの陥落により東ローマ帝国が滅亡した日です。
日本では応仁の乱が起きるちょっと前くらいですね。
それまでに東ローマ帝国は約1,000年ほども存続していたのです。
周辺諸国や十字軍の脅威に晒されたことこそあったものの、”テオドシウスの城壁”という同名の皇帝が築いた城壁などにより、その姿を保っておりました。
が、ここに来て後々世界史上屈指の大帝国になる国とぶつかり合うことになります。
史上最強帝国のひとつオスマントルコが立ちはだかる
それはオスマン帝国です。
15世紀のこの頃は、まさにこれから躍進していくという時期でした。
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元々アナトリア半島(アジアとヨーロッパの間に突き出てるアレ)の内陸部から興った国でしたので、交易その他のために海=港を目指していきます。
そして目をつけたのが、衰亡著しかった東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルでした。
実はハッキリした侵攻の原因(口実)はわからないそうですが、おそらくそんなところでしょう。
海がないと当時は商売なんてほとんどできませんからね。
このときのオスマン皇帝はメフメト2世という人で、敵の首都をかっさらおうとするだけに気性の激しい人ではありましたが、同時に柔軟な思考の持ち主でもありました。

メフメト2世/wikipediaより引用
難攻不落の名を1000年間保ってきた”テオドシウスの城壁”に対し、彼はいくつかの対策を講じます。
足がかりとなる城を建て、水陸両面からの進軍を行い、さらには当時発明されたばかりの大砲を使うことによって侵攻を進めました。
大砲についてはまだまだ実用的なものではなく、「一発撃つと次の発射まで3時間かかった」とか「数週間で壊れた」とかいわれています。
が、大坂冬の陣のように相手をビビらせる目的は達していたのではないでしょうか。
和平案を蹴って最終決着へ
とはいえ東ローマ帝国にも意地があります。
死に物狂いで応戦すると、二つの帝国の争いは膠着し、一時は双方から和平案も出ていたようです。
が、二人の皇帝はどちらも最終的に戦闘続行を選びました。
これは新旧二つの大帝国の争いという他に、キリスト教徒vsイスラム教徒の戦いでもあったからだと思われます。
コンスタンティノープルはキリスト教の聖地でもあり、東ローマ皇帝は正教徒と呼ばれるキリスト教の一宗派のトップでしたから、「異教徒」に膝を屈することは考えられなかったのでしょう。

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル/wikipediaより引用
もしもこのときまで西ローマ帝国が存続していたら、イタリア方面からの援軍を望むこともできたのでしょうけどね。
実際にはイタリアは一つの国ではなく都市国家が点在しているだけでまとまっていませんでしたし、他の国々も落ち目の東ローマ帝国を積極的に助けようとはしませんでした。
東ローマ帝国からは救援要請もしていたんですが……所詮世の中カネとモノですよね。
世知辛い話です。
最後の皇帝みずから最前線に突撃!
こうして孤立無援状態に陥った東ローマ。
皇帝のコンスタンティノス11世はもはやこれまでと諦め、5月28日の夜に最後の演説と儀式を行います。

コンスタンティノス11世/wikipediaより引用
皇帝というと後ろでふんぞりかえっているようなイメージがありますが、この方は29日、自ら親衛隊と共にオスマン帝国軍へ突撃をキメたそうです。
血の気多いな。
そのため遺体の所在は明らかではなく、「これっぽい」と思われるものを最後の皇帝として扱ったといいます。
真田幸村も実はそんな状態で遺体が見つかった――というのが有力な説ですね。
にしてもコンスタンティノスは皇帝であって将軍ではありません。
紛れもない国家のトップで聖職者を兼任していた人物の最期としては特筆していいことじゃないでしょうか。
時代が違えば「勇猛かつ敬虔な皇帝」として称えられていたかもしれません。
異教徒にすら寛容だったオスマントルコ
かくしてコンスタンティノープルは陥落。
オスマン帝国の首都として生まれ変わることになるのですが、「ローマ」の文化は残り続けました。
理由はいろいろありますが、メフメト2世がコンスタンティノープルをほぼそのままの姿で残したことも大きかったようです。
以前も何かの記事でちょこっとお話しましたが、元々キリスト教の主教座(主教というエライ聖職者がいるところ)だったハギア・ソフィア聖堂をそのままイスラム教のモスクとして利用したりとかですね。
名前は「アヤソフィア」と変えていますが、これは言語による読み方の違いであって、改名というほどの変更ではないとか。
また、キリスト教徒の自由を保障してもいます。

アヤソフィア
他国の場合、敵国の首都を奪った際は徹底的に破壊・略奪・宗教弾圧を行うことが珍しくありません。
このへんはイスラム教の「寛容の精神」が働いたのでしょうかね。
逃亡者たちが大航海時代を作った?
また、コンスタンティノープル陥落前にイタリアやスペイン・ポルトガル方面へに逃げた人々によって、後の大航海時代やルネサンス、宗教改革など世界史上の大イベントが起きる源流が作られたといわれています。
極端な話、もしここで東ローマ帝国が滅びなかったとしたら、ヨーロッパ諸国が先進国になるのはもっと遅くなっていたのかもしれません。
そうなると日本に鉄砲やキリスト教が伝来するのも大幅に遅れていたでしょう。
織田信長が長篠の戦いで大勝利を収めたり、徳川家康が大砲で淀殿をビビらせるなんてこともなかった可能性があります。
こういう想像って本当に楽しいですよね。
「歴史に”IF”は厳禁」とは言いますが、通史を作っているわけでもなく、一般人がアレコレ想像(エンタメ)するのは問題ないでしょう。
長月七紀・記
【参考】
『コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)』(→amazon link)
コンスタンティノープルの陥落/wikipedia