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【コンスタンティノープル陥落】
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最後の皇帝みずから最前線に突撃!
こうして孤立無援状態に陥った東ローマ。
皇帝のコンスタンティノス11世はもはやこれまでと諦め、5月28日の夜に最後の演説と儀式を行います。
皇帝というと後ろでふんぞりかえっているようなイメージがありますが、この方は29日、自ら親衛隊と共にオスマン帝国軍へ突撃をキメたそうです。血の気多いな。
そのため遺体の所在は明らかではなく、「これっぽい」と思われるものを最後の皇帝として扱ったといいます。
真田幸村も実はそんな状態で遺体が見つかった――というのが有力な説ですね。
にしてもコンスタンティノスは皇帝であって将軍ではありません。
紛れもない国家のトップで聖職者を兼任していた人物の最期としては特筆していいことじゃないでしょうか。
時代が違えば「勇猛かつ敬虔な皇帝」として称えられていたかもしれません。
異教徒にすら寛容だったオスマントルコ
かくしてコンスタンティノープルは陥落。
オスマン帝国の首都として生まれ変わることになるのですが、「ローマ」の文化は残り続けました。
理由はいろいろありますが、メフメト2世がコンスタンティノープルをほぼそのままの姿で残したことも大きかったようです。
以前も何かの記事でちょこっとお話しましたが、元々キリスト教の主教座(主教というエライ聖職者がいるところ)だったハギア・ソフィア聖堂をそのままイスラム教のモスクとして利用したりとかですね。
名前は「アヤソフィア」と変えていますが、これは言語による読み方の違いであって、改名というほどの変更ではないとか。
また、キリスト教徒の自由を保障してもいます。
他国の場合、敵国の首都を奪った際は徹底的に破壊・略奪・宗教弾圧を行うことが珍しくありません。
このへんはイスラム教の「寛容の精神」が働いたのでしょうかね。
逃亡者たちが大航海時代を作った?
また、コンスタンティノープル陥落前にイタリアやスペイン・ポルトガル方面へに逃げた人々によって、後の大航海時代やルネサンス、宗教改革など世界史上の大イベントが起きる源流が作られたといわれています。
極端な話、もしここで東ローマ帝国が滅びなかったとしたら、ヨーロッパ諸国が先進国になるのはもっと遅くなっていたのかもしれません。
そうなると日本に鉄砲やキリスト教が伝来するのも大幅に遅れていたでしょう。
織田信長が長篠の戦いで大勝利を収めたり、徳川家康が大砲で淀殿をビビらせるなんてこともなかった可能性があります。
こういう想像って本当に楽しいですよね。
「歴史に”IF”は厳禁」とは言いますが、通史を作っているわけでもなく、一般人がアレコレ想像(エンタメ)するのは問題ないでしょう。
長月七紀・記
【参考】
『コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)』(→amazon)
コンスタンティノープルの陥落/wikipedia