紀元前1279年5月31日は、エジプト第19王朝のファラオ・ラムセス2世が即位したとされる日です。
暦も変わっていますし、文字通りはるか古代のことなので、本当にこの日かどうかは疑わしいのですが……。
ともかくこの方の経歴がハンパない!
子供が180人おり、寿命は90前後、60年以上もの間、エジプト王朝の統治をしていたというのです。
更には後世になってミイラが発見されたおきには、その運搬に際してパスポートが……って、一体どんな方なのよ!
話がどこまで盛られているか。
それを念頭に置きつつ、まずはエジプト王朝の概要から確認して参りましょう。
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31王朝から更に続くよエジプト史
「第19王朝」というのはギリシアの学者が作った便宜的な分け方で、実際にはそんな頻繁に王家が変わっていたわけではありません。
エジプト史をものすごく乱暴にまとめるとこんな感じです。
【ややこしいエジプト王朝の歴史】
先王朝時代 まだ統一されてなかった頃
↓
第1~2王朝 ファラオが登場し、少しずつまとまり始める
↓
第3~6王朝 ファラオが強権化し、ギザの3大ピラミッドが作られる
↓
第7~11王朝 王様がいるのに大混乱期
↓
第11~12王朝 中央集権しかける
↓
第13~17王朝 大混乱セカンド
↓
第18~20王朝 現代でも有名なファラオが数多く出た時代 ←今日この辺
↓
第21~25王朝 大混乱サード
↓
第26~31王朝 ゴタゴタしてたら三方向(全部別の国)に攻められて王朝終了
↓
アレクサンドロス3世(大王)に滅ぼされる
↓
プトレマイオス朝 アレクサンドロス3世の部下の子孫たち
↓
ローマ帝国の支配下に入る
↓
イスラム圏に入る
↓
エジプト革命
↓
そして現代へ
第1王朝から最後の第31王朝までだけで3700年もあるんですね。
こんなに長かったら、そりゃあどこかで分けないと学術界では不便で仕方ない。
日本で古代エジプトの話をするときは、だいたい
◆ギザの3大ピラミッドの時代(第3~6王朝)
◆男装のファラオハトシェプスト・今回のラムセス2世・少年王ツタンカーメンの時代(第18~20王朝)
◆絶世の美女・クレオパトラ7世(プトレマイオス朝)
この辺りが主でしょうか。
子供の数は180人だと!? ただし養子含む
ラムセス2世はその中でも、突出した偉業とエピソードを多く持つ人物です。
パーソナルデータがまずスゴイ。
・ミイラから推測される身長183cm
・同じく推定される死亡時の年齢は88~92歳
・妻妾の数は不明ながら180人程の子供がいた
当時の成人男性の平均身長が160~165cm、平均寿命が35~40歳だったといわれていますので、一般人には神の一員としか思えなかったかもしれません。
乱暴に現代日本で換算してみると「身長2mの超高身長の人が人類の寿命新記録を出した」みたいな感じでしょうか。
すごいというかむしろ怖い?
ラムセス2世のトーチャンであるセティ1世も大柄で文武両道だったといわれていますし、顔もよく似ているので、血筋だったのでしょう。
子供についてはさすがに多すぎるので、「半数は”王の息子”という称号を与えられたか、養子かどちらかだろう」ともいわれています。
もしも全員が実子だとしたら、エジプト人の大半はラムセス2世の子孫ということになりそうです。
まぁ日本も似たようなものですが。
また、ラムセス2世は自らも優れた戦士であり、戦の際はその存在だけで兵の士気が上がったといいます。
ヒッタイト(現在のトルコ東部にあった国)と戦ったときは、情報撹乱を受けつつも互角に戦い、平和条約を結んで休戦するという柔軟さも見せました。
このときラムセス2世はヒッタイトの王女の一人を妃に迎えたといいます。
世界最初の平和条約・和解のための政略結婚かもしれません。
ラムセス2世にとって非常に誇らしいことだったらしく、あっちこっちに戦勝の記念碑を作りまくりました。
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