1740年(日本では江戸時代・元文五年)5月31日。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡くなりました。
オーストリア継承戦争や七年戦争でオーストリア・フランス・ロシアと戦ったフリードリヒ2世のお父ちゃんです。
じゃがいも大好きフリードリヒ2世はドイツ(プロイセン)を代表する王様也
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フリードリヒ2世は自分の兵から「親父」と呼ばれていたそうなので、ヴィルヘルム1世は「親父の親父」ということになるわけですが……この二人、どちらかというと似てない親子だったようです。
今回は、ヴィルヘルム1世を見て参りましょう。
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夫婦仲は悪い されど子供は14人でうーん……
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が生まれ育った頃、プロイセンの財政は火の車状態でした。
彼の父親がお金を使いすぎたのです。
ただ単に遊んでいただけではなくて、大学を作ったりもしたので、悪いことばかりではなかったんですけどね。
ともかくそのせいか、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は学問や芸術を極端に嫌い、軍事にばかり目が行くようになってしまいました。
粗暴な王であったため、妃であるゾフィー・ドロテアとも打ち解けられず、夫婦仲は良好とはいえなかったようです。
その割に14人も子供がいる(うち4人は早世)んですが、どういうことだってばよ。
こう書くとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は何一ついいところがなかったかのように見えますが、数々の改革も行っています。
いろんな意味で強烈過ぎて、なかなか好感は持ちにくいのですけれども……。
一つずつ見て参りましょう。
ひとつ!(ガチの)巨人軍を創設じゃ!
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は背の高い男性を見つけては、兵士として取り立てるという変わった趣味がありました。
背が高い=力が強い=いい兵士になる。
そんな連想からだったようで、いつしかどんどんそのアイデアが肥大化していきます。
それが頂点に達したある日、彼は国中に向けてこんな募集をかけました。
「背の高い男を差し出したら者には褒美を! 自ら名乗り出た者には給与を与える!」
こうして国内全土から背の高い男を集め始めたのです。
ただでさえガタイのいいドイツ人から見て【背の高い人】ですから、中には2m級の人もいたそうで。
高給を出しても王の下に行きたがらない場合は、誘拐同然の方法で連れて行ったとか(!)。
身長2mを相手に人さらいをする技術があるなら、どうにかして戦術にも応用できそうな気が……しませんかね。
それとこれだと話が違うんですかね。
ひとつ! カントン制度で軍隊強化なり!
こちらは誘拐ではなく、各地域ごとに一定の人数を兵士にするという方法で軍隊を強化しようという方策でした。
「兵が逃亡した場合、責任はその兵の出身地域にも課せられる」といった罰則もありましたが「2年兵役につけば、その後は1年のうち2ヶ月だけ軍にいればいい」という割とマシな条件が提示され、次第に国民から信頼されるようになっていきます。
これによりプロイセンの軍隊はある程度安定した兵数を確保できるようになりました。
息子・フリードリヒ2世の時代に大きく躍進できたのは、こうした紳士的な対応が影響したのでしょう。
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