アリエノール・ダキテーヌ

アリエノール・ダキテーヌ/wikipediaより引用

欧州

元祖「ヨーロッパの祖母」アリエノール 欧州中の王家に血脈を残す

「人類みな兄弟」とは的を射た言葉で、人は多くの方と共通の遺伝子を持っていますよね。

歴史を振り返ってみれば、尊い血を保つため、特に古代~中世あたりまでは近親婚も積極的に行われました。

本稿はその起点なったとある女性のお話です。

1152年(仁平二年)5月18日は、アリエノール・ダキテーヌが結婚した日です。

お相手は後のイングランド王ヘンリー2世であるアンジュー伯アンリでした。

 

フランス南西部アキテーヌ地方に生まれて

まずは、アリエノールの名前から取り掛かりますと。

彼女の名は綴りからすると、アリエノール・ド・アキテーヌとも読めます。

「ド」が英語の「オブ」にあたり、「アキテーヌ出身のアリエノール」という意味になるのです。

その名の通り、フランス南西部にあったアキテーヌ地方領主の娘でした。

ここはワインで有名なボルドーなどが含まれる地域で、九州とほぼ同じくらいの面積だとか。

ローマ帝国やその後にできたフランク王国の時代を通して文化的に栄えた地でもあり、20世紀の客船・ルシタニアの姉妹船であるアキタニアにもその名が使われています。

それだけに独自の勢力を持っていました。

そういうところでお偉いさんの娘に生まれたので、アリエノールは当時の女性としては珍しく文化や芸術、ラテン語を学び、かなりの教養を持っていたとされています。

父の後継者になるはずだった弟が若くして亡くなったとき、アリエノールがアキテーヌの相続人になっているほどです。

父は、自らが亡くなる前にフランス王ルイ6世を後見にするよう言いつけ、アリエノールはルイ6世の子・ルイ7世と結婚して、夫婦でアキテーヌを治めていくことになりました。

いくら教養があっても、フランスでは「サリカ法」という女性君主を認めない法律があるために、単独で君主にはなれなかったのです。

ルイ7世 (フランス王)u/wikipediaより引用

 

負けたのはオマエのせい! 十字軍で惨敗し離婚へ

しばらくは夫婦仲も政治もうまく行っていたようです。

が、アリエノール25歳のとき、夫ルイ7世と共に第二回十字軍に参加した頃から雲行きが怪しくなってきます。

このときの十字軍が、現在のトルコあたりでセルジューク朝(11~12世紀の中東にあったイスラム国家)に惨敗してしまったのです。

しかも敗戦の責任を「アリエノールが危険な場所で休息したいと言ったせいだ」とされてしまったのだからたまりません。

このときの十字軍は、各国軍が方々のイスラム勢力下の都市をバラバラに攻略しようとしていて、全く統率が取れておらず、少なくともアリエノールのせいだけではなかったにもかかわらずです。

アリエノールは名誉挽回を計るべく、叔父・レーモンとともに内陸にあるエデッサ伯国(現・トルコ)の攻略を勧めましたが、ルイ7世は聞き入れてくれませんでした。

その間アリエノールは拘束され、レーモンは戦死。

エルサレムに向かったルイ7世の戦略も失敗し、戦況も夫婦仲もボロボロに……。

フランス帰国から4年後、「結婚の無効」という理由で離婚することになりました。

そしてルイ7世と離婚して2ヶ月後の5月18日、アリエノールはアンジュー伯アンリと再婚したのです。

アリエノールのほうが11歳上という、なかなかの姉さん女房でした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >

-欧州

×