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【アル・カポネ】
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脱税の裁判では陪審員を買収するも、直前に……
また、のし上がる過程において、自分と対立する者は容赦なく抹殺していました。
1929年の「聖バレンタインデーの虐殺」という事件がいい例です。
疑いを防ぐため、この事件当時アル・カポネはマイアミにいましたが、やはり取り調べの対象にはなりました。
さらに、わざと拳銃の不法所持で逮捕されています。
微罪で逮捕されることにで、より大きな事件の責任を逃れようとしたわけです。
それで10ヶ月程度刑務所に入りましたが、刑務所でもお偉いさんを買収していたため、VIP待遇だったそうです。刑罰って……。
ただし、この事件がきっかけで市民からの人気もダダ下がりになり、警察も「アイツ、いつかとっちめてやる」(※イメージです)と本腰を入れるようになっています。そりゃあな。
時が流れ、国の方針で脱税と禁酒法違反に対する取り締まりが厳しくなると、アル・カポネも裁判にかけられました。
主な罪状は脱税だったので、アル・カポネの差し金で殺されたり、不利益を被った人からすると物足りなかったでしょうが……。
この時もアル・カポネは陪審員を買収して逃れようとしましたが、事前にバレて陪審員を入れ替えられてしまい、失敗に終わります。
最終的に、アル・カポネには十一年の懲役と多額の罰金が課せられ、1931年のこの日にクック郡刑務所へ入りました。
クック郡刑務所でも所長や職員を買収して、服役中とは思えない生活をしており、ギャングへの指示もしていたそうです。
しかし、再審請求が却下されてしまうと、一気に転落の道へ。他の囚人から罵られることも珍しくなくなったといいます。
その一方でシャバにいた頃アルの世話になった者は味方してくれたといいますから、裏の世界でもやはり人望が大切ということなんですかね。
別の刑務所に移された後はさらに真面目に服役しており、その分ナメられもしました。
週末にはバンジョーを演奏して、他の囚人と楽しいひと時を過ごすこともあったといいますから、囚人同士でもそれなりの付き合いはあったのでしょう。
刑務所の中で梅毒からの認知症
風向きが決定的に変わったのは1936年になってから。
この年、囚人たちがストライキを起こした際、アル・カポネが参加しなかったため「お前の妻と子供を殺してやる」などと脅迫されることになりました。
本人はこの頃から梅毒を発症して心身ともに弱っていたらしく、毛布を頭からかぶって泣いていたといいます。
かつてのボスの面影はほとんどなくなっていました。
その後もストに参加しなかったことや恐喝を断ったことにかこつけて、刑務所内で刺されたことさえあります。
現在でもアメリカの刑務所はいろいろと物騒な話を聞きますが、当時はもっと酷い場所だったんでしょうね。
そうこうしている間に梅毒が進行して認知症に近い状態となり、別の施設に移されたものの、とき既に遅し。
この頃とあるFBI捜査官がアルに面会しておりますが、「現実と妄想の区別がつかない状態」に見えたそうです。
刑期が明けた後はボルチモアの病院で治療を受け、その後家族とともにフロリダに移り住みました。
効果は芳しくなく1947年1月、脳卒中とそれに伴う肺炎で亡くなっています。
前述の通り、アル・カポネは刑務所にいた頃からほぼ別人になっておりました。
が、死の翌日には新聞に「悪夢の終わり」と書かれたとか。
アル・カポネを描いた映画などでも、刑務所に入る前のイメージをさらに誇張したものが多いですよね。
一度ついたイメージはそう簡単に変わらないということ、ギャングのボスであっても人間には変わりないということでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
アル・カポネ/wikipedia
聖バレンタインデーの虐殺/wikipedia