アル・カポネ

アル・カポネ/wikipediaより引用

アメリカ

アメリカの代表的マフィア「アル・カポネ」神をも恐れぬ大ボス悲惨な最期

1931年(昭和六年)10月24日は、シカゴギャングのボスであるアル・カポネがクック郡刑務所に入所した日です。

ギャングというと神をも恐れぬ大悪人という印象がありますが、アル・カポネの場合は時折人間らしい一面を覗かせることもありました。

だからといって彼の悪行が肯定されるワケではないんですけどね。

いったいどのような一生を送ったのか。

見ていきましょう。

 

NYブルックリン地区で9人兄弟の4番目として生まれた

アル・カポネは1899年、ニューヨーク・ブルックリン区で九人兄弟の四番目に生まれました。

フルネームは「アルフォンス・ガブリエル・カポネ」といいます。ガブリエルといえば受胎告知で有名な天使でもあり、何となくギャングとは結びつかない感じがしますね。

父親がガブリエーレという名前だったので、そこから来ているのでしょうし、「悪魔は天使のふりをしてやってくる」といいますし……。

血筋としてはご存知のとおり(?)イタリア系で、父は理髪師、母は裁縫の仕事をしていた、ごくフツーの一般家庭でした。

当初は学校の成績も良かったらしいのですが、あるとき担任の先生(女性)と殴り合いの大ゲンカを繰り広げ、それ以降学校に行かなくなったといいます。どんだけー。

その先生も、まさか自分が殴り合った生徒が将来ギャングのボスになるとは思わなかったでしょうね。

その後、アル・カポネは“オシャレをして街に繰り出す”という不良少年のテンプレに走りつつ、ビリヤードや銃の扱いを覚えていきました。

ただし、酒は飲まなかったそうです。

同時にまっとうな場所でも働いており、少しでもお金を稼いだら母親に渡すような家族思いの面もありました。真面目なのか不真面目なのかよくわかりませんね。

そういう生活を続けているうちにアル・カポネはイタリアンマフィアと知り合いになり、その中の一人に気に入られて下働きを始めます。

そして20歳前後でシカゴに行き、売春宿の客引きや裏社会のやり取りを覚えたとか。

 

命を狙われることもあり、慈善事業に勤しむこともあり

シカゴに行ってからは、元々ボスに気に入られていたこともあり、一年も経たないうちに賭博場兼売春宿の支配人として認められ、大金を稼ぐようになったといいます。

アル・カポネはこの頃までに結婚して妻子もいたため、シカゴに家を買って呼び寄せました。

母・兄弟も同時に呼んでいるので、再び10人前後の賑やかな暮らしになったことでしょう。

幼少の頃のアル・カポネと母/wikipediaより引用

幼少の頃のアル・カポネと母/wikipediaより引用

しかし、裏社会で目立つ存在になったということは、それだけ命の危険も増すということ。

他のギャングを暗殺した頃から、アル・カポネは「自分もいつか暗殺される」と思うようになり、自宅以外では一人になることがないよう、常にボディーガードをつけるようになりました。

実際、26歳のときアル・カポネの暗殺が試みられ、たまたま不在だったため難を逃れたことがあります。

この手の事件で疑心暗鬼が極まると、そのうち身内の粛清を始めるのが常ですが、アル・カポネの場合はそこまでいかなかったようです。

暗殺未遂と同じ年にアル・カポネを見込んだボスが引退、若くしてギャングを引っ張っていく存在になりました。

ときは悪名高き禁酒法時代――。

アル・カポネは酒の密売で多額の利益を上げ、その金で官憲を買収し、実質的にはシカゴの市長同然の存在になっていきます。

カタギの人々を味方につけるため、貧しい人向けに無料で炊き出しを行うなど、慈善事業もしていました。

ただし、その食材は地元の食料品関係の店からぶんどったものだったとか。やはりギャングはギャングですね。

殺人事件への関与を疑われて逃亡した先の街では、主にイタリア系住民にかくまわれたこともあり、自分の金で貧しい家庭を援助したり、子供の遊び相手をしたこともあります。

かくまってくれた礼なのか、裏で脅迫していたのかは定かではありませんが。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >

-アメリカ

×