実は歌詞ができた年代と、曲(メロディー)がついた年代がまったく違うのをご存知ですか?
明治十三年(1880)10月25日は国歌としての君が代が初めて試奏された日。
ということで、君が代に関するトリビアをまとめてみました。
元は古今和歌集「賀歌」に収められていた
君が代の歌詞の元になったのは、平安時代の古今和歌集におさめられた次の歌です。
「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
古今和歌集の「賀歌」という巻に収められているもので、長寿を祈る歌として長く語り継がれてきたのです。
それも京都周辺だけでなく、日本全国で。
特に薩摩では「薩摩琵琶」という弾き語りの一形式と結びつき、「蓬莱山」という歌の中に組み込まれて親しまれていました。
この間にはじめの「我が君は」が「君が代は」という婉曲的な表現になったのでは?
と言われています。
薩摩の大山巌が曲の制定を進める
明治になって、この部分を直接選んだのは、後の陸軍大将・大山巌でした。
彼も薩摩出身ですから、薩摩琵琶も蓬莱山の歌もよく知っていたでしょう。
「君が代~」は蓬莱山の出だしではありませんから、よほど印象に残っていたのでしょうね。
国歌を作ることを勧めたのは、当時イギリス公使館にいたジョン・ウィリアム・フェントンという軍楽隊の隊長だったそうです。
「これから世界に出て行くのに、国歌がないと式典で困っちゃいますよ。うちの『女王陛下万歳!』みたいな曲を作ってみては?」
まだ憲法ないのに国歌制定を勧められるって、今考えるとスゴイ感覚ですね。
大山が「君が代」を歌詞に決めた後、フェントンが曲をつけ、明治3年9月、薩長土肥の操練をご覧になられた天皇の前で初演されたところ、日本人にとっては歌いづらいメロディーだったそうでボツられてしまいました。
彼はアイルランド出身でしたから感覚も独特だったでしょうし、まだ日本人が西洋の音楽に慣れていないというのも理由でしょうね。
そこで宮内省の雅楽担当者がメロディーをつけ、フェントンと入れ替わりに来日したフランツ・エッケルトというドイツ人の音楽家がハーモニーをつけて完成となりました。
最近は「歌いづらい」という人もいるですが、それだけ日本人が西洋の音楽に慣れてしまって、雅楽など日本古来の音楽から離れてしまったということになるのでしょうかね。
ちょっと寂しいような気もしますが、そのぶん式典やスポーツの試合前で選手が歌っているのを見ると厳かな気分になれる……かも。
君とは誰か?
ところで、何かと物議を醸す「君が代」の歌詞ですが、これは古語特有の曖昧さゆえのこともありましょう。
古語では現代語と同じ単語に見えても、意味が全く変わるのは珍しい話ではありません。
例えば「背」。
現代では「背中」や「後ろ側」という意味ですが、古語では女性が旦那さんや兄弟へ呼びかける言葉でした。
ちなみに反対は「妹」(いも)です。
古代は兄妹婚が多かったでしょうから、その名残ですかね。
それと同じように「君が代」を考えてみると、大きく分けて二つの解釈ができます。
「君」という言葉には、
「主君・貴人」
「恋人」
という意味があるのです。
前者の場合は「天皇陛下の治世が永く続きますように」、後者であれば「恋人が健康に長生きしてくれますように」というところですね。
明治政府としては前者の意味でこれを選んだのでしょう。
この和歌本来の意味として考えると、後者であっても全くおかしくはありません。
フランス「血まみれの旗~」
どっちにしろ、他の国(特にヨーロッパ)の国歌と比べればかなりおとなしい歌詞ではあります。
フランスの「ラ・マルセイエーズ」は「血まみれの旗が掲げられた」とか「敵の母親なんぞブッkrせ!」とか出てきますからね。
フランス革命のときにできた歌詞らしいので、時代的に仕方ないのかもしれません。
最近はさすがに「もう時代とあってなくね?」という意見もあるようです。
アフガニスタンやインドなど、多民族の国では各民族名や地方名を織り込んでいる国歌もありますね。
明治時代までは他国と大々的な戦争をしたこともありませんでしたから、こういう歌詞になったのではないでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
君が代/wikipedia
薩摩琵琶歌大全集/国立国会図書館