バラクラヴァの戦い

バラクラヴァの戦い・第93歩兵連隊のシン・レッド・ライン/wikipediaより引用

ロシア

バラクラヴァの戦いとは? 目出し帽という意外な副産物を産んだ戦闘

「歴史は繰り返す」とはよく言われます。

実際いくつかの事績を追ってみると「なぜ繰り返した?」とツッコミたくなることも……。

1854年(日本では幕末・安政元年)10月25日は、クリミア戦争におけるバラクラヴァの戦いがあった日です。

クリミア戦争の概要については以下の記事にまとめておりますので、併せてお読みいただけるとよりわかりやすくなるかもしれません。

今回はもうちょっと詳しく見ていきましょう。

まずは大枠を掴んでから進みましょう。

 

8行でわかるかもしれないクリミア戦争の経過

① 1853年7月 ロシア帝国がオスマン帝国領モルドバ・ルーマニアに侵攻、クリミア戦争開戦

②1853年11月 シノープの海戦(虐殺とも)

③1854年3月 イギリス・フランスがオスマン帝国側で参戦

④英仏オスマン連合軍がクリミア半島に上陸、半島南端のセヴァストポリ要塞周辺が主戦場に

⑤1854年10月 バラクラヴァの戦い ←今日ここ

⑥戦線膠着中にサルデーニャ王国が連合軍側で参戦を表明

⑦1855年8月 セヴァストポリ要塞陥落、ロシアの敗北が決定

⑧1856年3月 パリ講和会議でクリミア戦争終結

つまり「バラクラヴァの戦い」とは、「クリミア戦争局地戦inクリミア半島・セヴァストポリ要塞周辺」の名前であるということです。

この要塞はロシア帝国のものだったので、ロシアにとっては防衛戦、連合軍にとっては攻城戦になります。

 

割と無計画(?)なヨーロッパの戦争

が、バラクラバの戦いについては逆になるのが実にややこしいところでもあります。

なんでかというと、

「セヴァストポリ要塞を攻めに来た連合軍」
vs
「それ攻撃するため、ロシア本国からやってきた救援部隊」

という形だからです。

三重の同心円の中心をセヴァストポリ要塞、その外側に連合軍、一番外側にロシア救援部隊と考えるとわかりやすく……なりますかね……。

しかもこの戦い、始まる前にいろいろと問題が起きていました。

イギリス軍もフランス軍も本国から遠く離れたところに来たので土地勘が全くなく、ついでに気候に関する事前調査もしていなかったため、いろいろな被害が出ていたのです。

ロシア側の民兵に日夜を問わず襲撃されたり、停泊中の船が嵐で使えなくなったり、散々な有様でした。

「なぜ調べなかった」とツッコミたいところですけれども、よくよく考えればヨーロッパの戦争って割と「出たとこ勝負」な感がありますよね……。

第四回十字軍は「やっべ! 途中でいろいろ足りなくなった! 近場からとっちゃえ!」で同じキリスト教徒のビザンツ帝国を襲ってますし、第一次世界大戦だって「(開戦した年の)クリスマスまでには終わるだろう」と言われていたのが、4年以上かかった上に3000万人以上の死傷者を出してしまいました。

 

部隊の約四割が戦死した悲劇(という名の人災)

その無鉄砲さというかもはやコメントに困るような事態は、戦闘に関することでもおきていました。

上記の記事でも触れていますけれども、ニットの「カーディガン」の元ネタになったカーディガン伯爵がムチャな軽騎兵突撃をキメて決まらず、部隊の約四割が戦死したという悲劇(という名の人災)が起きたのもこのときだったのです。

イギリス本国では「なんて勇敢なんだ!」という評価をされていて、絵画や詩の題材にもなっているのですが……産業革命をした国がそんな旧時代的な戦法を褒め称えていいんかい。

ちなみに、バラクラヴァの戦いでのイギリス軍は、重騎兵の突撃もやっていたりします。

こちらは6倍もの数に対して勝利を収めたため、文字通り快挙なのですが、何故か被害が大きい&負けたほうがより高く評価されているという摩訶不思議。

そうでもないと、犠牲になった兵が報われないからでしょうか。

衣料品関係でいうと、「ラグラン線」というデザインも、この戦いに参加していた初代ラグラン男爵フィッツロイ・サマセットのために作られたものだったりします。

彼がナポレオン戦争で右腕を失ってしまったので、その状態でも似合うようなコートの袖として考え出されたのだとか。

トレンチコートも第一次世界大戦時の塹壕(トレンチ)戦対策の防寒着として作られたものですし、イギリス軍発祥のファッション用語って実はたくさんあるんですよね。

現代の軍服も、だいたいイギリス軍のデザインが元になっていますし。

オシャレさより実用第一な感がイギリスっぽいというか何というか。

 

もともとは寒冷地での戦闘のため、兵士の妻たちが作った

そしてもう一つ、この戦いで生まれた衣料品がありました。

この戦場の名をそのまんま冠した「バラクラヴァ」という帽子です。

「目出し帽」といったほうがわかりやすいですね。

現代では泥棒御用達なイメージも強い帽子ですが、元々はこの戦いをはじめとした寒冷地での戦闘のため、兵の妻たちが作った「顔の防寒もできる帽子」だったのです。

海に近いとはいえ、ロシアがすぐそこということはそれだけ寒いわけですしね。

そんな妻の思いやりが犯罪者の標準装備になってしまうとは……。

まあそんなわけでいろいろとツッコミに疲れる戦闘なのですが、最終的には連合軍がロシア軍救援部隊を追い返すような形で終わります。

そしてクリミア戦争自体はまだまだ泥沼状態が続き、それに伴って人的・金銭的被害も大きくなっていくのでした。

戦争を避けるべき理由はいろいろあり、終わらせどきが見えないまま続けるのが一番よくないという良い(悪い)見本ですかね。

第一次および第二次世界大戦が起きてしまったということが、人類史上最大の悲劇なのかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
バラクラヴァの戦い/Wikipedia
目出し帽/Wikipedia

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