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【スレイマン1世】
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スレイマン自身の私生活もなかなかの戦場でした
スレイマン1世は家庭環境も中々の戦場でした。
奴隷だったスラブ系の愛妾・ロクセラーナを正式に身分から開放し、皇后にしています。
よほどのお気に入りだったらしく、6人も子供がいます。
オスマン帝国の皇帝は、一人につき2人以上の男子を産んではならず、それ以下の場合も皇帝から遠ざけられなければならないという決まりがあったのに、です。
その他にもロクセラーナは帝国の慣習をいろいろ変えさせたり、ライバルになりそうな美女を遠ざけたりと、かなり頭がキレる女性だったことが窺えます。
「大帝」が家庭では奥さんに頭が上がらなかったと見るとちょっと微笑ましい……かも?
まあそれはともかく、スレイマン1世とオスマン帝国の快進撃はまだまだ続きます。
海賊を海軍に引き入れて提督に任じ、海防の任せるというなかなか頭の柔らかいこともしていました。
イギリス海軍に抜擢されたフランシス・ドレイクとほぼ同じ経緯ですが、こちらのほうが半世紀くらい前のことです。
案外、エリザベス1世がこの話を聞いてフランシスを引き入れたのかもしれませんね。
戦争ばかりだと後継者育成が厳しい?
そんな感じでオスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世ですが、やはり人の子ですから欠点はありました。
彼の時代にオスマン帝国はフランス・イングランド・オランダへ「恩恵」として特権を与えたのですが、これが後に治外法権と同等となり、オスマン帝国が「瀕死の病人」になった頃に他国の介入を許すことになってしまったのです。
また、オスマン帝国の慣習通り、スレイマン1世の息子たちが後継者争いを行い、そこにロクセラーナ他後宮の女性が絡んで結構なお家騒動になってしまいました。
反乱を起こした皇子については自ら処刑しているあたり、冷酷さもうかがえます。
スレイマン1世の後、最後に残った皇子がセリム2世として即位しました。
が、やはりスレイマン1世ほどの力はなく、重臣が台頭するキッカケとなります。
それでもしばらくの間は名実伴った家臣が帝国を支えているので、あながちスレイマン1世だけのせいとも言いがたいところはあります。
やっぱり対外戦争ばかりしていると、後継者育成やその他の「足元」がお留守になるものなんですかねえ。
長月 七紀・記
【参考】
スレイマン1世/wikipedia