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【シルウェステル2世】
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「悪魔と取引した」なんて言われることも
シルウェステル2世は生涯にわたって、古代ローマ時代の著作の写本を積極的に収集していました。
ランス時代には、司教座附属学校の図書館にそうした写本を加えたり、授業に用いたりしています。
若い頃には教皇から「哲学者に傾倒しすぎるのは良くない」と怒られるほどだったそうで……。まあ、宗教と哲学って似て非なるものですもんね。
また、5~6世紀のイタリア人学者・ボエティウスを尊敬し、彼の「理性によって感情や障害を克服する」というモットーに従おうとしました。
数学や天文学を重んじたのも、そうした学問が理性に属するものと考えたんでしょうかね。
イベリア半島の後ウマイヤ朝を通じて、アラビア圏の学問や文献も積極的に学んでいたとか。この時期、キリスト教圏とアラビア教圏は小康状態だったため、書物を手に入れるのもそんなに難しくはなかったようです。
あまりにもアラビア由来の学問に詳しいので、
「シルウェステル2世が自らアラビア圏に行った」
「悪魔と取引して知識を得た」
とまでいわれていたそうですが、さすがにそれはないやろ。
いずれにせよ、シルウェステル2世の学識を慕ってランスに留学する学生が増え、彼らを通じて多くの学問が後世に伝わったとされています。
弟子が合計で何人いたのかはわかりませんが、そのうち20人前後が大司教や修道院長などのお偉いさんになったそうですから、なかなかいい先生だったのではないでしょうか。
ラヴェンナで雌伏したまま永遠の眠りに……
シルウェステル2世は他に、聖職者の独身制なども進めています。
今でも、基本的にカトリックは独身でなければ聖職者になれませんから、「1000年以上続く伝統を作った」と見るとスゴイですね。正式に決まったのはもう少し後の話ですが。
こうして真面目に職務や学問に取り組んでおりながら、度重なるオットー3世の干渉に対してローマの貴族たちが激おこ状態。
教皇と皇帝はローマから追い出され、ラヴェンナで雌伏することになります。
そしてオットー3世は翌年、シルウェステル2世もさらにその翌年に亡くなり、その悲願は永遠に叶わぬものとなりました。
シルウェステル2世が優れた頭脳を持っていたからこそ、やっかみを買ってあることないこと言われるようになったのか、ガチだったのか、どっちでしょう。
まあ、頭が良すぎる人って常人からすると「何考えてるかわからなくて怖い」と思うこともありますしね。
本人に目立った落ち度がないだけに、何だか貧乏くじを引かされた感ががが。
長月 七紀・記
【参考】
シルウェステル2世 (ローマ教皇)/wikipedia