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【フリードリヒ・ヴィルヘルム1世】
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ひとつ! 庶民は働け、逃げたら追うぞ!
財政が火の車状態で即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、宮廷だけでなく国全体の財布の紐を締めにかかりました。
その政策の一環として「市場の女達は、ヒマなら喋ってないで糸紡ぎをしろ」というようなお触れを出しています。
しかも、こういった細かな命令がきちんと守られているかどうか把握するために、自ら町に出て見回りをしたのだとか。
それこそヒマじ……ゲフンゲフン。
命令が守られていないと杖でぶん殴っていたといいますから、市民が怯えるのも当然の話です。
中には「王様が来るぞー!!」と聞いただけで逃げ出す人もいたとか。
しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、そういう人を見つけると「なぜ逃げるんだ」と問い詰め、「王様が怖いんです」と言われようものならブチギレて「お前たちは私を好きになるんだ!!」と怒鳴ったそうな。
暴力振るっといて好きになれとか……。
異次元すぎるやろ(´・ω・`)
ひとつ! 亡命した息子は幽閉 手助けした家臣は成敗!
こういったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世ですから、私生活でも温厚な夫・父とは言い難い状態だったようです。
フリードリヒ2世の好むオペラなどの芸術を否定するわ。
芸術的なものを楽しんでいるとぶん殴ってくるわ。
当然ながら父親を尊敬できるはずがありません。
そんな父親に反抗して、フリードリヒ2世がまだ王太子だった頃、亡命を計画したことがありました。
南ドイツに旅行した際、親友であり近衛の軍人であり、一番の理解者でもあるハンス・ヘルマン・フォン・カッテという人物に手引をしてもらうよう頼んだのです。
が、父王はそんなことお見通しでした。
即座に見つかり、フリードリヒ2世は幽閉されてしまいます。
そして、カッテは王太子逃亡の主犯として処刑されることになったのです。
一度目の裁判では無期懲役になったのを、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が
「カッテが死ぬか、司法が消えるか、どちらがいいと思う」
と脅迫して変えさせたのだとか。
裁判とは一体……。
処刑は、フリードリヒ2世が幽閉されていた部屋のすぐ側で行われました。
「カッテ、私を許してくれ!」と叫んだところ、「私は恨んでなどいません、殿下は国王陛下と一日も早く仲直りなさってください」と答えたそうで。
なんという忠臣の鑑でしょうか(`;ω;´)
後にドイツ統一の中心となっていくフリードリヒ2世
フリードリヒ2世はカッテの遺言を守り、処刑後に父へ謝罪の手紙を書きました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世も尾を引くようなことはせず、その後は息子に軍事を任せるようになっていきます。
晩年には、息子に関して「あいつがいれば後は心配ない」と言うほどの信頼を寄せるようになりました。
フリードリヒ2世は、父親のお気に入りだった(ガチ)巨人軍は廃止していますけどね。
まぁ、お金がかかる割に役に立っていなかったので仕方がありません。
この後、プロイセンはフリードリヒ2世の時代となり、その後もいくつかの戦争と政争を繰り広げながら、やがてドイツ統一の中心となっていきます。
カッテの犠牲は無駄にならなかった……いや、無駄にしなかったというべきですかね。
長月 七紀・記
【参考】
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世_(プロイセン王)/wikipedia
カントン制度/wikipedia
巨人連隊/wikipedia
ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ/wikipedia