暴君ネロ

母を謀殺した後の皇帝ネロ/wikipediaより引用

ローマ

暴君ネロは家庭内でもサイテーだった? 結婚記念日に妻を処刑&自殺

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DVのせいで死んだ説あり 毒殺説あり

妻を処刑したネロは、その年の内にポッパエアという女性と再婚します。

この女性もまた野心家でしたが、娘を産んだことで比較的夫婦仲は良好でした。あくまでオクタウィアと比べれば、ですが。

というのもポッパエアの死については記録がバラバラすぎて、ホントに愛してたのかどうかが全くわからないからです。

DVのせいで死んだ説あり、毒殺説あり。

はたまたネロが葬儀で号泣した=殺していない説あり、と全く一貫性がありません。

古代史ってこういうところがもどかしいですよね。

とはいえネロはもともと頭の悪い人ではありません。

即位して5年ほどは名君といわれていましたし、上記のような残虐な仕打ちの合間にも善政に類することをしています。

しかし家庭教師・側近だった哲学者セネカの殺害や、ローマで起きた大火災の犯人としてキリスト教徒を迫害したことで少しずつ不満が肥大化してしまいます。

 

最後は自殺に追いやられる

そしてあるとき、ちょっとしたきっかけで市民と元老院(今でいう内閣みたいなもの)の反感を爆発させてしまい、クーデターを起こされて自決に至りました。

享年30。
そしてそれが6月9日でした。

この時代、皇帝は市民と元老院の信任があってこその地位だったので、信頼を失ってしまったら玉座に座り続けることはできなかったのです。

こうしてネロの治世は彼の命と共に終わりましたが、その墓には多くの花や供え物が手向けられたといわれています。

また、あまり良くない死に方をした割には後の皇帝にきちんと葬儀をしてもらったり、神格化されたりと扱いは悪くありません。

当時の人々は単なる暴君というより、

「たまに暴走するけど良い皇帝」

と見ていたんでしょうかね?

母親一人に罪を着せるのもどうかとは思いますが、もしアグリッピナが孟子の母親と同じくらい謙虚な女性だったとしたら、ネロは稀代の名君として称えられていたのかもしれません。

親が口を出しすぎるとかえって子供に悪影響を及ぼすという好例……ですかね。

長月 七紀・記

【参考】
『図説 ラルース世界史人物百科〈1〉古代‐中世-アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(→amazon
ネロ/wikipedia
クラウディア・オクタウィア/wikipedia

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