「列車の旅」ってロマンがありますよね。
ガタンゴトンと揺られながら車窓の風景を眺めていると、まさに日常の喧騒から離れることができる。
異国ならなおさらで、昭和世代の方でしたら、冒険がてら実際にお乗りになられたのがこの列車じゃないでしょうか。
1891年(明治二十四年)3月29日、ロシア帝国でシベリア鉄道の建設が決定しました。
大河ドラマ『いだてん』で主人公がヨーロッパを目指したことから、注目度が高まっている鉄道ですが、建設から利用、そして今日に至るまでは様々な紆余曲折をたどっています。
規格や列車そのものついては、鉄道ファンの皆様のお任せして、今回は歴史に関わるような事績をダイジェスト的に振り返ってみましょう。
ゆっくりながら鉄道建設計画は進行
「ロシアの東方地域からモスクワ方面へ」
そんな交通網を作ろうという動きは、着想より半世紀近くも前からありました。
が、いつの時代のどこの国でもよくあることで、地方のことは中央政府の人間にとってはあまり魅力的に思えず、具体的な話が進まないまま数十年が経ちます。
関心が持たれるようになったのは、議会で
「馬車ではなく鉄道を作れば、軍事的にも経済的にも大きなメリットがあります。飢饉の防止にも役立つでしょう」
という提案がされてからでした。
具体的にどんなメリットがあるか?
という話が出ると、人間興味をひかれますものね。
その後、資産家が建設予定ルートの測量報告を出したり、皇帝への意見書が出されたり、ゆっくりながら鉄道建設計画は進行。
当初はまだモスクワまで繋がっていませんでした。
厳密にいえば現在も「シベリア鉄道」はモスクワまで行っていません。
別路線との連絡によって繋がっているというほうが正しいようです。
ニコライ皇太子 あの事件の約一ヶ月前
実際の建設が始まったのは、歴史的イベントに関連しております。
ニコライ皇太子(後のニコライ2世/最後のロシア皇帝)が、日本を含めた東アジアの視察旅行に出たのです。
その際、父である皇帝・アレクサンドル3世から「帰りにウラジオストックで鉄道建設の現場に立ち会うように」と命じられたのですね。
この命令が出されたのは、ニコライ皇太子が狙われた大津事件の約一ヶ月前。
彼は事件の後、ウラジオストックに向かっており、
「日本からすぐに離れたいから、近場のウラジオストックを目指した」
という感情的な理由ではなかったんですね。ホント大人の対応や。
建設に際し、地形的な意味で最も大きな障害となったのはバイカル湖でした。
地図上でも思わず「でけえ」と呟いてしまうような大きな湖です。
なんせ南北に636kmもあるようで、日本で言えば東京ー大阪間と同規模の距離感になりますね。
バイカル湖は、世界で最も深い湖であるという点で有名で、場所が場所だけに冬場は分厚い氷に閉ざされます。
しかしこの付近を通さないといろいろ支障があるということで、迂回ルートができるまでの間、夏は湖上に連絡船を渡し、冬は氷の上に線路を敷いて(!)繋げていたとか。
線路を引けるほど分厚い氷って日本人には想像もつきませんが、シベリアにはマイナス55℃を記録した町もあるくらいですので、ありえない話ではないんでしょうね。あぁおそロシア。
この湖、実はとある悲劇の現場でもあるのですが……まあその話はまた日を改めましょう。
戦争の真っ最中 しかも最大の激戦中
途中で清(当時の中国)から敷設権を買ったりして、国際的な問題をクリアしながら建設は進められ、全線開通したのは1904年9月のこと。
つまり日露戦争の真っ最中です。
しかも同戦争中最大の激戦・旅順攻囲戦中のことでした。
単純に、シベリア鉄道建設を後回しにすれば、もっと兵数を増やせたってこと? んなバカな、怖すぎ……。
シベリア鉄道は二度の世界大戦にも関わっています。
まず、第一次世界大戦では間接的に日本がシベリア出兵をするきっかけになりました。
その理由となったチェコ人部隊とロシア帝国のいざこざが起きたのがシベリア鉄道での移動中のことだったのです。
ものすごくややこしい話なんですが、それだけに「国際問題ってこうやってこじれていくんだな」という一例かなぁと思います。
ドイツ人捕虜も送られ
さらに第二次世界大戦では、独ソ戦が終わった後のわずか三ヶ月程の間に、大量の兵士がシベリア鉄道で輸送されました。
目的地は、当時日本領になっていた朝鮮半島です。
このとき、前線で戦った旧日本軍のうち、捕まってしまった兵士の多くがシベリア鉄道沿線で強制労働をさせられました。
いわゆる”シベリア抑留”ですね。
第二次世界大戦のときにシベリア送りになったのは日本人だけではありません。
独ソ戦最大の戦い・スターリングラード攻防戦でのドイツ人捕虜のうち、生存者の多くがシベリア鉄道沿線に送られ、移動中もしくは強制労働中に亡くなったといわれています。
おそらく日独両軍に属していた別の国の人々にも、犠牲者は多かったでしょう。
「シベリア」という地名自体に暗い印象がつきまとうのは、このあたりのことを潜在的に連想するからなのでしょうね。
現在のシベリア鉄道は「乗ること自体が観光」という意識で利用する人が多いようです。
個人的には、歴史の面から見て複雑な思いがしますね。
いつか乗ってみたいような、乗りたくないような……。
カタコトのロシア語でも何とか通じるそうですが、英語表記がない&英語が通じないというのもネックでしょう。
ネット上では日本人で複数回利用されている方のレポートがあったりしますので、それを読んで楽しむのが無難ですかね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
シベリア鉄道/wikipedia