人をまとめ上げることは、想像以上に難しいことが多いですよね。
血の繋がった家族でも、どうにもならない溝が生まれてしまうこともあるのですから、いわんや他人同士をや。
まとめる立場にある人がそういったことを自覚していれば、次第に協力者も現れてくるものですが、なかなか難しいのが現実であり……本日はそんな感じの、とある王様のお話です。
1863年(日本では幕末・文久三年)3月30日は、ギリシャ国王ゲオルギオス1世が即位した日です。
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11行で何となくわかるギリシャ史
ギリシャといえば古代史や哲学の分野ではよく出てきますが、「王様がいた」ということはほとんど知られていませんよね。
まずはギリシャがどんな歴史をたどってきたのか、ざっくりとつかむところからいきましょう。
1 都市国家時代 アテネとかスパルタとか
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2 マケドニア王国(アレクサンドロス大王の国)に支配される
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3 ローマ帝国に支配(ry
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4 東ローマ帝国に(ry
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5 オスマン帝国に(ry
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6 独立
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7 王政 ←今日この辺
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8 第二次世界大戦でドイツ・イタリア・ブルガリアに分割占領される
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9 ギリシャ内戦
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10 軍事独裁政権
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11 共和制
こんな感じです。
他国の王室から自国の王を迎える→欧州では珍しくない
マケドニア王国からオスマン帝国に支配されていた期間が約2000年。
都市国家や民主主義の発祥地であるにもかかわらず、ギリシャ人は国としての自主自立や、自分たちで統治する方法をすっかり忘れてしまっていました。
そんなわけで、とりあえず王制で再出発しようとしました。
しかし、はじめに迎えたドイツ人の王様がうまく行かず、次にデンマーク王家の次男だったゲオルギウス1世が王に選ばれます。
他国の王室から自国の王を迎える――なんて、日本人からすると理解しがたい話ですが、ヨーロッパでは「自国民かどうか」よりも「王様は高貴な血筋でなくてはならない」という点が重視されるため、こういうのはよくある話です。
ちなみに、現在のイギリス女王エリザベス2世の夫・エディンバラ公フィリップ王配は、ゲオルギウス1世の孫にあたります。
ゲオルギウス1世の生まれたときの名前は「クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク」というのですが、記事中ではゲオルギウス1世で統一しますね。
「王である前に国民の一人」という態度を示す
17歳で異国の王になったゲオルギウス1世は、まずギリシャ語の習得と先代王の轍を踏まないことを心がけました。
先代の王ことオソン1世は、独立から日も浅く経済的な混乱が続いている状態で重税を課すなどの失策をしていたからです。
そして憲法の制定を急ぎます。
当時のギリシャ議会では憲法制定の審議が長引いており、ゲオルギウス1世は「私は憲法完成を前提にここへ来たのだから、早く決めるように」と命じました。
こうしてギリシャ憲法が制定され、ゲオルギウス1世も自ら遵守することを宣誓、「王である前に国民の一人」という態度を示したのです。
この憲法は、近代ヨーロッパで初めて「全ての」成人男性による選挙が制定されたという点でも進歩的なものでした。
しかし、当時のギリシャの識字率はお世辞にも高いとはいえず、1864年~1910年までに21回の総選挙と70回もの内閣交代が起きるほど。
ギリシャの政治・経済が現在進行形で安定とは程遠いのも、このあたりの時代の考え方が固定化してしまっているからなのかもしれません。
そうした難しい状況の中で、ゲオルギウス1世は姻戚関係で繋がっている他国の王と協力していきました。
具体的には、義兄にあたるイギリス王太子エドワード(後のイギリス王エドワード7世)と、義弟であるロシア皇帝アレクサンドル3世です。
つまり、ギリシャ・イギリス・ロシアで協力関係ができたわけですね。
運河の完成や五輪開催でテンションあげあげ
ゲオルギウス1世は国民からの人気も高く、独立から間もないギリシャは活気づき始めます。
コリントス運河の完成や、1896年の夏季オリンピック開催などにそれが現れているといえるでしょう。
このオリンピックの際、ギリシャ人のマラソン選手スピリドン・ルイスが優勝を収めたのですが、そのときのエピソードが、当時のギリシャ王室の雰囲気をよく物語っています。
スピリドンが会場に戻ってきて最後の100ヤード(約91m)を走っている時、ゲオルギウス1世の王子たちが並走したというのです。
ルールや常識的にはアレですが、国民感情としては大きくプラスになったでしょうね。
ゲオルギウス1世も、席から立ち上がってスピリドンを褒め称えたとか。
ゲオルギウス1世時代の王室に対するギリシャ国民の感情は基本的に良いものでしたが、もちろん波もありました。
オスマン帝国との戦争で負けたときには、一時的に支持を失いかけています。
1898年には暗殺未遂事件まで起きました。
しかし、ゲオルギウス1世はそれに臆しない態度を見せることで、再び支持を取り戻しています。
おそらく「異国人の王」がうまくやっていくためにはどうしたらいいかということを、よくよく意識していたんでしょうね。
そして間もなく、彼のそのポリシーがかえって仇になる瞬間がやってくるのでした……。
護衛も付けずに街中を散歩する気さくな姿勢がアダとなり……
1912年に第一次バルカン戦争という戦争が起き、ギリシャも参加していくつかの地域を攻略しました。
その中の一つが、現在もギリシャ第二の都市であるテッサロニキです。2000年以上も前からある街で、歴史上でもちょこちょこ名前が出てきますね。
ゲオルギウス1世は元々、アテネでも護衛をつけずに街中を歩くという気さくな国王でした。
そしてテッサロニキでもそれをやったところ、不審者に至近距離から撃たれて亡くなってしまったのです。
犯人の供述は「自分は社会主義者だ」「国王が金をくれなかったから」などといったもので、背後関係ははっきりしていません。
そのためか、だいぶ手酷い拷問をされたようです。
ゲオルギウス1世があまりにも突然亡くなったこともあって、その後のギリシャ王室&政府は迷走します。
まぁ、独立間もない国でいきなり王様がいなくなってしまっては、舵の取りようがなくなるのも仕方ないかもしれません。
ゆえに経済的にも危機を迎えてしまうのは致し方ない一面もありましょうが……それにしても、そろそろまともに走り出してほしいものですね。
長月 七紀・記
【参考】
ゲオルギオス1世_(ギリシャ王)/Wikipedia