1814年(日本では江戸時代・文化十一年)3月31日は、ナポレオン戦争でパリに連合軍が入城した日です。
ナポレオンと言えば、日本でも特に知られた有名人。
実は幕末にもその功績が輸入されていて吉田松陰や西郷隆盛も影響を受けたという話もあります。
そのナポレオンとは切っても切れないのがナポレオン戦争。彼が執政・皇帝として権力の座にあった頃起こした一連の戦争のことです。
年数でいえば1796年から1815年まで。ナポレオンが一度クビになって復帰した「百日天下」の期間までになります。
後半に行くほど複数の戦争が並行していたり、そもそも関係する国が多かったりで非常にややこしいのですが、ものすごく乱暴にまとめると
「ナポレオンが台頭して失脚するまで、ヨーロッパ諸国が頑張った一連の戦争」
という感じになります。
逆にいえば、「ナポレオンを完全に封じ込めるまで、複数の国がかりでも20年近くかかった」ということにもなりますね。
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ナポレオンを封じ込めるまで複数の国が手を組み20年
フランス・ナポレオンから見た流れとしてはこんな感じになります。
16行で読むナポレオン戦争の流れ
①フランス革命戦争&第一次対仏大同盟
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②第一次イタリア遠征
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③エジプト遠征(エジプト・シリア戦役)
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④第二次対仏大同盟
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⑤ナポレオンが皇帝に即位
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⑥第三次対仏大同盟&アウステルリッツの戦い&トラファルガーの海戦
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⑦第四次対仏大同盟&プロイセン攻略&大陸封鎖令
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⑧スペイン独立戦争
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⑨第五次対仏大同盟&マリー・ルイーズと再婚&教皇幽閉
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⑩ロシア遠征(ロシア戦役)
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⑪第六次対仏大同盟&ライプツィヒの戦い
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⑫ナポレオン失脚、地中海のエルバ島へ流される
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⑬ウィーン会議(が踊って何も進まない)
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⑭ナポレオンが配流先から脱出、百日天下&第七次対仏大同盟
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⑮ワーテルローの戦いでナポレオンが再び敗北
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⑯ナポレオンが大西洋の孤島・セントヘレナ島へ流される
いや、もう、ポイントを並べるだけでも凄まじい長さですね。
受験生のみなさんが気の毒で仕方ありません(´・ω・`)
つーことで、できるだけ端折りつつ、本題に入っていきましょう。
民衆主導のフランス革命はシャレにならん
フランス革命が起きたとき、ヨーロッパ諸国は非常に大きな衝撃を受けました。
王制が当たり前だった当時、もしも自分のところで革命を起こされたらたまらないからです。
アメリカ独立戦争は、それこそ「対岸の火事」でしたが、地続きのヨーロッパで起きた変革を放置しておく訳にはいきません。
そこで、フランス革命軍 vs ヨーロッパ諸国の間で起きたのが「フランス革命戦争」です。まんまですね。
後者の組んだ同盟を「第一次対仏大同盟」といいます。ここからしばらく「フランスvs諸外国」という構図が続くので、対仏大同盟は第二次・第三次……と数字が増えていくのですが、いちいち参加国が違うのがめんどくさいところです。
さすがに世界史のテストで「第○次対仏大同盟の参加国を答えよ」なんて問題は出ないと思います。そこに力を入れるより、他のところでミスを減らすほうが良さそうかなぁ、と。
閑話休題。
こうして取り囲まれた状態のフランス革命軍は、ドイツ・イタリアの二方面から、同盟の中心格であるオーストリアに攻め込もうとします。
このうち、イタリア方面の司令官だったのがナポレオンでした。
緒戦で敗退したオーストリアは停戦を申し入れ、中核が脱落したことで、第一次対仏大同盟は瓦解。ここでフランスはいくつかの衛星国や領地を得て、ますます勢いづいていきました。
「そうだ、エジプトへ攻め込もう!」
オーストリアを退けることには成功しても、大同盟に参加した国のうち、イギリスがほぼ無傷だったことはナポレオンにとって問題でした。
制海権を奪うことは難しく、そこで彼はイギリスとインドの連携を断ち切り、経済的に打撃を与えようと考えます。
「そうだ、エジプトへ攻め込もう!」と、この意見が採用され、エジプト遠征が始まるのでした。
しかし、イギリス提督ホレーショ・ネルソン率いるイギリス海軍に負けて孤立してしまっただけでなく、一度は占領したマルタ島を奪われてしまいました。
そしてこの流れで、別の国へとばっちりが行くことになります。
地中海を押さえられたせいで、デンマークとスウェーデンに通商上の不都合が出てしまったのです。
また、ロシアも「イギリスが地中海にでしゃばってくるとウザいんだよね」と考えます。
ロシアにとって不凍港を得ることは悲願であり、その候補地の一つはクリミア半島~黒海~コンスタンティノープル~地中海のラインだからです。
この辺は地図を見るとわかりやすいですかね。
デンマーク・スウェーデン・ロシアの第二次武装中立同盟
こうして、利はともかく害が一致したデンマーク・スウェーデン・ロシアの三ヶ国。
ここにプロイセンが加わって、第二次武装中立同盟が結成されました。
ちなみにこの四カ国はアメリカ独立戦争時にも似たような同盟を組んでいました。
なのでこのときが「第二次」なんですね。対仏大同盟との混同が起きそうでめんどくさいところです。
しかし、これに難癖を付けたのがイギリスでした。
デンマークの首都・コペンハーゲンを砲撃して勝ったことで、同盟はあっさり瓦解。完全に恫喝です、本当にありがとうございました。
デンマークはフランスに、ロシアとスウェーデンはイギリスに近づいていくことになります。
この時点で戦争がだいぶ長引いていたこともあり、スウェーデンの調停でフランス革命戦争の和解を図る会議が開かれました。が、案の定頓挫して戦争が続きます。
そのうちオーストリア・イギリス・ロシアを中心として第二次対仏大同盟が結成され、オーストリアが北イタリアを奪還したことで、再びフランスは窮地に陥りました。
いつの時代も、民衆は負けた政権に厳しいもの。
フランス総裁政府(革命政府)の支持がガタ落ちする中、ナポレオンがエジプトを脱出してクーデターを起こし、独裁権を得ます。
その勢いでナポレオンはオーストリア軍を撃退し和約に持ち込み、第二次対仏大同盟は瓦解しました。
他、ローマ教皇との対立を解消し、イギリスとも講和しました。
しかし、一年ほどでフランスがイギリスにとって経済的にアレな行動を取り始めたため、今度はイギリスがフランスへと宣戦布告。
この辺からヨーロッパ諸国の目的は「ナポレオン打倒」になっていきます。
皇帝となったナポレオン 英国本土へ乗り込もうとすると
一方、ナポレオンはフランス皇帝に即位し、絶対的な権力者になっています。
その勢いに乗り、イギリスと決着をつけるため、本土へ乗り込もうと計画しました。
対するイギリスはオーストリア・ロシアなどを引き込んで、第三次対仏大同盟を結び対抗します。
ナポレオンはまずオーストリア軍を打ち破り、その後、アウステルリッツの戦いで完勝を収めました。
この戦いを「三帝会戦」ともいいますが、名前の由来は、フランス・オーストリア・ロシアの参加国がいずれも皇帝を戴いていたからです。語感がいいので、こちらの名前を覚えていた方も結構多いのではないでしょうか。
しかし、相変わらず海でイギリスが相手となる「トラファルガーの海戦」には勝てませんでした。
この戦いそのものはナポレオン戦争に大きな影響を与えませんでしたが、これによってナポレオンが「イギリスはほっておこう」と決めたことがのちのち仇となります。
というか、世界史的にいうと「イギリスは真っ先に攻略するか、味方につけるか、完全に放置するかを決めて相手をしないと大損する相手」なんですよね。さすが大英帝国(この時点だと未来の話ですが)。
後年、例のちょび髭も対イギリス・対ロシア戦略でナポレオンと同じ失敗をしています。この二人に対する一般的な印象はかなりの違いがあるので、意外ですよね。
かくしてイギリス以外の問題を片付け、当面の危機を脱したナポレオンは、兄・ジョゼフをナポリ王、弟・ルイをオランダ王にして周囲を固めました。
ナポレオンの勢力がドイツ中部にまで及びはじめたことで、その東にあるプロイセンも脅威を感じるようになります。
そのためイギリス・ロシア・スウェーデンとともに第四次対仏大同盟を組み、フランスへ宣戦布告しました。
結果は、プロイセンの大敗。
フランス軍はベルリンまで攻め込みます。
首都陥落って、いかにもシャレにならない感じがしますが、世界史上だと実は珍しくもない話だったりします。
大陸封鎖令でイギリス潰れろ!
ここでナポレオンは大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出しました。
イギリスとヨーロッパの大陸諸国の貿易を禁じたものです。
イギリスの工業製品をヨーロッパの大陸国に輸入させないことで、イギリスへ経済的な打撃を与えようという狙いですが、商売相手がいなくなって困るのは他の国も同じ。
結果としてフランスとナポレオンへの反感が強まり、禍根を残すことになります。
フランスがイギリスと同じくらい工業化していて、完全に代替品を供給できる状態ならうまくいったかもしれませんが、そもそもちょっと前まで革命で、それどころじゃなかったですしね。
ナポレオンはケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)へ逃れたプロイセン王一家を追撃すると、今度は第四次対仏大同盟によってロシアが参戦し、一筋縄では行きません。
最終的には勝利を得ながら、ここでプロイセン王家を潰せなかったことも失策の一つでしょう。
ロシアに勝利を収めたナポレオンは、ロシアその他の国によって分割され、独立を失っていたポーランドの一部をワルシャワ公国として独立させます。
恩の押し売りではありますが、ポーランド人にとっては救世主にも見えたでしょうね。
また、プロイセンにはヴェストファーレン王国という衛星国家を作り、弟・ジェロームを王にして地盤を広げています。
しかし、プロイセン側も黙ってはいません。軍の改革などを行い、来るべき再戦に備えます。
次にナポレオンはロシア皇帝アレクサンドル1世と会談し、「スウェーデンを一発殴って、大陸封鎖令に参加させよう」と決めます。
これによって第二次ロシア・スウェーデン戦争が起き、負けたスウェーデンは大陸封鎖令に参加することになりました。さらに、フィンランドをロシアに割譲しています。
戦争あるあるですが、どう見てもカツアゲです。
更にこのとき、スウェーデン国王カール13世がナポレオンの部下・ベルナドットを養子にしたことも後々影響を及ぼしてきます。
ベルナドットは後にスウェーデン王となるのですが、元上司を見限ってスウェーデンを対仏大同盟側に戻したのです。デキすぎる部下も考えものというか、求心力を保ちつづけるのも大変ですよね。
スペインを押さえオーストリアを叩き、ナポレオンの絶頂期
このタイミングでスペイン独立戦争が始まり、少々情勢が変わってきます。
なんで「独立」かという理由は少々ややこしくなるのですが……。
当時のスペインは、フランスと「同盟という名の子分」な関係だったため、国王と王子の間で対立が起きていました。そこにナポレオンがつけ込み、自分の兄・ジョゼフを王にしています。
スペイン人からすれば、「同盟相手の兄貴を無理やり押し付けられた」カタチになるわけで、もちろん気に入らない話ですよね。
そこで蜂起が起き、スペイン全土に拡大して戦争になったというわけです。
イギリスも、フランスの力を削ぐために援軍を送りました。
これに対しナポレオンは自らやってきて勝利を収めますが、部下に任せて帰った後、フランス軍はgdgdの泥沼に。その状況を聞いた他国は、今こそ好機!と見て動き出しました。
苦汁をなめさせられ続けていたオーストリアが、イギリスと第五次対仏大同盟を組んで再びナポレオンに挑みます。
しかしやはりフランスが勝ち、オーストリアは領土と賠償金をがっぽり取られてしまいました。なんなんでしょうか、オーストリア。
というか、このあたりがナポレオンの絶頂期にあたります。
最初の妻ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚。翌年には息子・ナポレオン2世が誕生し、ローマ王にしています。
この間、ローマ教皇ピウス7世を幽閉し、教皇の領地をフランスに併合しました。
かくしてヨーロッパの半分近くがナポレオンの支配下となったのです。
ロシアへ攻め込んだフランス軍 逆にフルボッコで壊滅へ
しかし、絶頂期とはそう長く続かないもの。大陸封鎖令によって、経済的に苦しくなっていたのはイギリスだけでなく、他のヨーロッパ諸国も同じことでした。
真っ先に音を上げたロシアが、同令を破ってイギリスとの貿易を再開してしまいます。
このためナポレオンはロシア征伐を決め、遠征に出ました。
ロシアは最初から、長期戦に持ち込むつもりで作戦を立てていました。国内の奥へ奥へと誘い込み、冬の寒さと焦土戦術で大打撃を与えるというものです。
自国の被害を気にしないところが実におそロシア。フランス軍の勝利もありましたが、最終的には見事ロシアの狙いにハマって壊滅します。
撤退中にもロシア軍や農民に襲われ、フランス兵の生存率は小数点以下のレベルにまでなってしまいました。
ナポレオン最大の誤算がここにあります。
ロシアにやられたこともそうですが、兵は降って湧いてくるものではありません。
いくら人口増加を促進したところで、一人の人間が武器を取って戦えるようになるまで最低15年程はかかります。
ロシア戦役で減った分を埋め合わせるまでの間、ヨーロッパ諸国がフランスを野放しにしておくはずがありません。
この機会に、真っ先に動いたのがプロイセン。なんせ首都まで落とされていますから、復讐したい気持ちは人ならぬ国一倍です。
フランスは対プロイセンの戦いでは勝ったものの、スペインでイギリス軍に破れ、斜陽の兆しが見え始めます。
オーストリアはマリー・ルイーズを嫁がせていた手前、停戦を仲介したものの交渉は敢えなく決裂。イギリス・プロイセン・ロシア・スウェーデン・オーストリアによって第六次対仏大同盟が結成されました。
そしてフランスvs第六次対仏大同盟軍がライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)へ突入し、フランスは大敗を喫するのでした。
そのまま同盟軍はフランス国内に侵攻し、パリまで攻略した……というわけです。
ワーテルローの戦いでプロイセン張り切る
ナポレオンは皇帝の座から引きずり降ろされました。
が、よりにもよって流された先がエルバ島という地中海のごく近所に送ってしまったため、一年も経たずにあっさり脱出してしまいます。
しかも、戦後処理のために開かれたウィーン会議は、いわばヨーロッパ版の小田原評定。各国の利害が対立しあい、長引く割に全く進展しません。
フランスでは、ルイ18世が即位して王制に戻してみたものの、失策が続いて市民の不満が高まるばかり。そのタイミングでナポレオンが戻ってきたのですから、国民の期待が集まるのも当然のことでした。
期待が集まれば兵も来るわけで、瞬く間にナポレオンは再び軍を率いることができるようになります。
これを知った各国はイギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアなどが第七次対仏大同盟を結び、ワーテルローの戦いが始まります。
このとき一番(?)気合が入っていたのは、今度こそナポレオンを木っ端微塵にしたいプロイセン軍でした。
フランス軍vsイギリス・オランダ連合軍で戦っているところにプロイセン軍が横腹をつき、夜通し追撃をかけて壊走させたといわれています。
フランスとプロイセン・ドイツにはさまざまな因縁がありますが、ナポレオン戦争もそのひとつといえますね。
「次こそは永久にヨーロッパから追放だ!」というワケで、この後、ナポレオンは大西洋の孤島・セントヘレナ島への流刑が決まります。
アフリカ大陸南部の西方にある、欧州から見れば、絶望的に遠い島ですね。
死に様や扱いからするとちょっとかわいそうにも思えますが、ヨーロッパ諸国から見たナポレオンは、それだけのことをしたとみなされていたんですね。
まぁ、当事者に報復するのは理に適った話ですけれども。
個人的に、大河ドラマのネタが尽きたときには世界史も良いのでは……と思っているのですが、ナポレオンはいかがでしょうか。
まぁ、時間も予算も圧倒的に足りないですかね。
長月 七紀・記
【参考】
ナポレオン戦争/wikipedia